無意識日記々

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つまらないじぶんがたりないと

前にも触れた通り、UTUBEの毎日の再生回数には本当に斑がない。ある日はこの曲がたくさん再生され、ちがう日にはちがう曲が、といった事が全くないのである。まだ定期的に見始めて日が浅いので、今だけの事かもしれないとはいえ。

これだけ人気が固定化されて顕現する"チャート"は稀である。売上枚数なら、話題性やプロモーションの質・量によって変わり得るだろうが、今の宇多田ヒカルは全くの無風状態で、各楽曲に関する情報の流通量に変化はないであろうから、こんな正直なチャートはない。

考えようによっては、これはとても残酷な順位付けかもしれない。序列に何の言い訳もできないのだ。この順番は、避け難く"何か"の指標となっている。長期的な変化を知ればこの感想は変わるかもしれない。ただ、曲ごとになんらかの"力量の序列"を定義できる事が出来るのではないかという悪魔の誘惑に駆られる。

それは、特に嬉しい事ではない。あの曲よりこの曲の方が優れているとか劣っているかとか、そんな話は楽しいとは思わない。それなら、売上の話をした方がマシである。それはただの数字だからと逃げを打てる。この、逃げ道を確保できる事は重要だ。それがないと、落ち着いて音楽なんか聴いていられない。

その曲を聴いている時には、その曲でしか味わえない何かを味わっているのであって、他の曲との優劣をつける為に聴いているのではない。聴き終わった"後に"、あっちの方が好きだとかこっちの方がいいとか語り始めればいいのだ。

しかし、このUTUBEの再生回数のように、指標として何かを明確に示唆できてしまう数字が並び始めると、そんな"初心"は脆くも忘れ去られてしまう。これは、競技ではないのだ。

もっと様々な技術や環境が整ってくれば、更に詳細な指標が現れてくるかもしれない。そのうち、脳に電極を翳して「あなたの今の感動指数は120ですね」なんて言われるようになるかもしれない。SFちっくだなぁ。

実際、ネットに慣れた人間はひとの評価を気にし過ぎるようになる。そういう空気の中で、自分の趣味嗜好を貫いて口に出し続けるのは、ある面では大変な事である。それが自然である人には何でもないことではあるけれど。

指標が整備され、他者の評価が大量に手に入るこの状況で、ちゃんと感性を保つ為に必要なのは、自分の思いを自分の手で書き留めておくことである。

例えば私は、Passionを初めて聴いた時からこの曲に対する想いは全く揺らいでいない。過去ログを見てきてくれればわかる事だが、ずーっと同じような事を書き続けている。

なぜそうやって書き続けられてきたかというと、自己言及的だが、書き続けてきたからだ。書いておいたから、またそこから始められるのだ。書いたから揺らがない。そして、揺らいでいない事を確かめられる。

私が書けるのは、他でもない、書いているからなのだ。禅問答に等しく響いているとは思うが、人の心はとても弱く、脆い。すぐ自信を喪い、不安になり、道を見失う。

そんな中で、道しるべは、もう自分で書くしかない。行き先なんてどこでもいいし、行き方なんてなんでもいい。ただ大事なのは、自分の手で自分への道しるべを書いた事なのである。Single Collection Vol.1の表紙に書いてある事は、多分そういう事なのだ。