無意識日記々

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sense of "ripe"

仮に時間があってもフルアルバム分の曲数を揃えられなかったのではないか、という話の続き。

しかしこれは、一般論である。人は、青く硬い実から次第に熟していき枯れ落ちる。人の営み全般にいえることだが、作品作りにもその傾向はみてとれる。

若い時は常に全力で、力を抜くという事を知らない。時に手当たり次第にに、時に隙無く、作品の密度を上げていく。妥協を許さず、総てをハイクォリティーに揃えようという気迫がある。

これが成熟してくると、"力を抜く"という事を覚え、肝心要のポイントにだけ注力するようになる。若い頃と違い、自らが操れるエナジーの総量が見えているからだが、平時はぼーっとしているようにみえて、要所を占めるようになる。

これが、果実が熟す様に似ているのだろう。茎を細らせてでも、実に栄養を集中させようとするような作用。人が成熟していく姿と実の熟す姿がイメージの中で重ね合わされている。本質は、選択(と排除)と集中である。

そして、実った実はそうやって枯らした周囲に呑み込まれるようにして腐り落ちていく。世の常人の常だ。エナジーの総量自体が減じていくのである。

音楽でも、全曲充実したアルバムを作ったアーティストが次第に捨て曲の多い、ひとつふたつの名曲に焦点を絞った作風に変化する事もある。肝心要の楽曲にとことん集中し、他が疎かになってゆく。メタルでいえばブラインド・ガーディアンがそうだったが、まぁそれはいいや。

光は、それが我慢ならなかったのではないか。邦楽市場というのは伝統的に、一年に一枚のアルバムを作る契約を結ぶ事が普通だった。これは非常なハイペースだが、従って全曲が充実したアルバムに出会う事はなく、大抵はシングル曲以外は穴埋めといった感じだった。

宇多田ヒカルは、この原則に当てはまらなかった。兎に角結果はどうあれ全曲に全力を傾けそして実際にHEART STATIONのように全曲捨て曲って何ですか意味がわかりませんなアルバムを作り上げた。とんでもない努力の結晶だったと思う。

そんな光でさえ、曲作りに於いて自分が熟していき、"うまい具合に力を抜いて"曲作りを始めそうになっていきそうだった…自分のそんな変化を、事前に察知していたのではないか。

熟す、といっているが、このプロセスは意志の力ではどうしようもない。人の営みに於いて、いや自然の営みに於いて本質的な事であるから、我々はそれをただ時間の流れるままに眺めている事しかできない。あわよくば、その流れの中で曲を作ってみたりして爪痕を残す事は出来るかもしれないけれど。

今までアルバム全体をハイクォリティーに仕上げてきた"感性の若い"光が、適度に成熟して力の抜き加減を覚えた大人びた作品にするよりは、その中で集中力を発揮したメインとなる楽曲"のみ"を世に出したかったのかもしれない。斯くして、"全曲全力の宇多田ヒカル"という(本質的な)ブランドは守られた、そんなストーリーを描いてみたのだが、さてどうだろうな。

勿論、"実に栄養ばかり行って茎とかが痩せ細った"描像は光の言い出したイメージである。それをよしとしなかった、アーティスト活動を休止するに足る理由であると判断したこの光の価値観、価値基準が、光の個性そのものである気がする。SC2はその価値基準の許にプロデュースされたから、ヒカルの作品としてのオリジナリティが前面に押し出される事になったのだ。