無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

別名:「杞憂」

実際、「アルバム」という単位で音楽を楽しんでいる人がどれだけ居るのか。恭しくアナログレコードを取り出してきて綺麗に盤を拭いてそっと針を落とす…なんて事をすればどれ一時間音楽鑑賞しようかなとなってもおかしくはないが、我々は10年前に着うたを大ヒットさせて「サビだけ流れてくれればいい」レベルにまでドライな接し方になったのだ。「今更アルバムでもなかろう」と言ってもいい筈なのだ。

しかし『Fantome』のCDは売れた。まもなく70万枚に届こうかという勢いだ。「アルバム」という単位にまだこれだけ需要がある。そう言い切れてしまうのは「通常盤仕様1形態」という金看板のお陰だが、これを支えているのは結局は「全曲いい」と言わせる音楽家宇多田ヒカルの力、いやもう"力ワザ"である。

それに頼っている事に、何だろう、若干の疲弊感を感じるのだ。ヒカルの事だから、「アルバム全編聴くのはアルバム全編聴かせる曲ばかりだから」のまままた何作も名盤を作っていくだろうから、実際「何の問題もない」筈なんだけど、正体のよくわからない不安と心配だけがある。ジリ貧というか、この先は先細りしていくだけなんじゃないか、とでも言うような。矛盾した感情なのだ。常々、「ヒカルは年齢を経る事に曲作りが上手くなっていくだろう」と思っているのだから、アルバムを作る度にそれは更なる名盤の誕生であって、ジリ貧や先細りとは無縁極まりないとしか結論づけられない。それで何の問題もない。


…ふむ。暫く考えて少し見えてきた。つまり、私はこう考えている。「ただがむしゃらに一曲ずつ作っていってもヒカルは名盤と呼ばれる素晴らしい内容のアルバムを作り続けられるだろう。しかし、であるなら、最初からアルバムを作るつもりで曲を書き始めたら、もっと凄いアルバムが作れるんじゃないか。コンセプト・アルバムでもストーリー・アルバムでもトータル・アルバムでもいいし、コンセプト・アルバムでなくてもストーリー・アルバムでなくてもトータル・アルバムでなくてもいい。ただ、自ら狙いを定めて最初から1時間なり12曲なりの「世界の大きさ」を見据えた上で作曲に取り掛かる機会が来たら、何か途轍もなく凄い何かが出来上がるんじゃないか、その為には時に今のルーティンを逸脱する必要があるんじゃないか、それだからこその現状への不安と心配なのじゃないか、そう解釈してみました。ふむ、真実は神のみぞ知る。