無意識日記々

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空のように透き通っていたいの?

光の「いい音」に対する態度はよくみると(いや一目瞭然か?)かなり露骨である。前も書いた通りWild Lifeの特典映像でアコースティックギターを見つめる眼差しは慈しみそのものだし、他方Heart Station PVで着用した連邦の白い奴、じゃなかった、四角て白いヘッドフォンは落書きし放題である。あれ音よくないんだよね。

光は割と好みのハッキリした人間で―いや、より正確にいうと好み自体は割とどころか誰よりもクッキリハッキリしていて、それをどう表現するかについては割と温厚というか穏当というか、結構気を使いながら発言をする人だなぁ、と思う。「あれで!?」と思う人は光の嗜好の明瞭さを侮っているのかもしれない。誰にも譲らないと自負できる強烈に個性的な価値観がないと作曲なんて出来ないよ。

案外ここは弱いのかな、と思うのが食べ物の好みで、今まで色々と嫌いな食べ物についてコメントしてきたが説得力のあるヤツが思いつかない。ハンバーグなんて挽き肉の存在意義に異議を呈しているがおまぃら家族は餃子関連だろうがと思わず突っ込みを入れたくなる。圭子さんはラー油(太陽神ラーだっけ)、照實さんは酢キングなのだ。あれヒカルは何なんだ?

多分光は食べ物に好みってあんまりないんだと思う。その時食えるもん食ってきたんだろうな。あるもん食っとけな感じで。納豆が好きだというのは滅茶苦茶納得なのだが多分それも理由は蓋を開けてすぐ食べられるからだろう。ポッケにタレ入ってるヤツ便利だよねぇ。人間やるならあそこまでものぐさにならなければ。

まぁその食生活は兎も角、本来クセの強い嗜好をもつ光が「ガスになって地球を覆い尽くしたい」みたいな事を言い始めたのがしないなんというかよくわからない。いや私が「わからない」なんて言っちゃいけないんだろうけど、何故なんだろうかホント。

宇多田ヒカルという人は"Automatic"でデビューした。これは"マニュアル"の反対語である。我が世の春を謳歌するJ-popシーンが最高潮の市場であった98年にヒカルはデビューした。もうその頃にはヒット曲の方程式みたいなもんが確立され物事が形骸化形式化し、何もかもがマニュアル化されスノッブニヒリズムが幅を利かせ総ては実感の乏しい型の集まりと化していた。そういった文化の頂点のアンチテーゼとして、心底エモーショナルで人間的で何ものにも代え難くそれそのもの以外のなにものでもない何かとしてヒカルは現れたのだ。

そういう、実体そのもの、実存と実感の人であるヒカルが虚ろさに惹かれるようになったのは何故なのだろうか。答えを知っているのか知らないのか、答えがあるのかないのかも含めて次回考えてみたいと思う。さぁどうなるか。自分がいちばん楽しみである。