無意識日記々

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UtadaHikaranakunai,nakunakunai

10年前、とまではいかないが、New Hikki's Worldの管理人、ヨイショの金さんがヒカルの5で大量に新しいファンが雪崩込んできた時にいちばん人気の曲が「光」である事を不思議がっていた事を思い出した。当時も今もヒカルの曲で一曲選べといわれたら光を選ぶ私も、その感覚はよくわかる。確かに、この曲はそれまでのヒカルの曲からすると異質だった。

この、ファンの世代ごとの嗜好の差異は即ちヒカルの作風の変化に対応しているのだがもっとそれ以上に宇多田光自身のパーソナリティの変化に対応しているように思える。

いやまぁアーティストとしての志向と個人としての嗜好が連動する事は当たり前っちゃ当たり前なのだが、それにしたってこうあからさまだと何なんだろうと不思議に感じてしまうのである。

ただ、こうやっておおっぴらにアーティスト活動を休止している今の時期は光のパーソナリティの変化に対応する手段というか繋がりが絶たれている訳で、この断絶が将来どう効いてくるかは興味を引く。年齢・世代的なものも含め、ここだけ人がぽっかり空きはしないかと何だか妙な虚しさを覚える。

光は、わざと断絶を作ったのだろうか。金さんが「光」を今までの流れと異なる楽曲だと感じたその時点で、まだデビューして3年とちょっとである。その短期間で、新しい世代のファンがわんさか入り込んできて軸足のずれた趣味嗜好を披露する、昔からのファンはそういうものかと違和感を感じながら、新しい世代とコミュニケーションをとったり、距離を置いたり、或いはヒカルそのものから離れていったりする。

私の場合、冒頭で述べたようにヒカルの曲で一曲選べといわれたら今でも光と答えるが、それは一曲に絞るのが難しいから「いちばん好きなのは光本人です」と云う代わりに選んでいるという側面がある。裏を返せば、特にあの時代にだけ思い入れが強い訳でもないし、実際、なんだかんだで今の作風がいたくお気に入りだ。あんまり昔に戻りたいという気分はなく、ここからどうなるんだろうという気持ちの方が遥かに強い。

ただ、光の頃の光は、幸せそうだったなぁ、という以上に、元気でパワフルでイキイキしていたなぁ、という印象は強い。作風とパーソナリティとは連動して当然、とはいったけれど、この頃の連動ぶりは確かに特別だった気がする。まぁだからこそ自分の名前の漢字を曲名にしたりしたんですわね。