無意識日記々

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こども

このBlogを読者だと流石に言わないとは思うが、未だに「アニメはこどものもの」と本気で思ってる人がかなり居る事に…なんだろう、呆れるとも違うし驚くでもない、「そうなのか」と感じる、位が適当かな。何だか妙な気分がする。

単純に考えれば、表現の自由度から来る抽象性の高さの点でアニメーションという分野は実写より大人向けだといえるだろう。なぜ昔から「アニメはこどものもの」と言われてたかといえば、それはもうシンプルに文化として生まれて日が浅かったからだ。アニメという表現技術自体がこども向けだったのではなく、アニメ自体がまだまだ生まれたてのこどもだったのである。

時は過ぎ今は21世紀。実写と比較しても遜色ない文化としての蓄積がアニメに備わってきているのを感じる。元々その表現の自由度から技術を磨き継承してゆくにはやる事が多すぎて成長が鈍かったこの文化も、漸く"手法が出揃ってきた"感じがする。日本ではジブリ、米国ではピクサーが一歩抜け出ていたが、そろそろもっと群雄割拠になってもおかしくない。この分野は、まだまだ発展する。人間の年齢でいえば19歳くらいなんじゃないかな。

で。この後の話の流れは前回エントリーと同じである。Popsとしての歴史、西洋音楽としての歴史の積み重ねを背景に持ちながら、ここ10年、商業音楽が世界的に停滞している。いやクオリティがそんなに落ちている感じはしないのだが、兎に角斬新さがない。多分、何か革新的な事をやろうという人材が音楽業界に集まらなくなってるんじゃないだろうか。日本でいえば、創造力のある人は漫画を描き、腕に自信のある人はゲーム業界に飛び込んでいる気がする。両方から美味しい所を後からアニメ業界がとっていってる、そんな感じだ。さらにそのあとに実写ドラマ化、実写映画化とくるが、ここらへんになると抽象性についてこれない人たち向けに随分とわかりやすくせねばならなくなるのでクオリティはどうしたって低くなる。致し方ない。最初っから実写で勝負すりゃ別なんだがその話は長くなるので割愛。

何が言いたいかといえば、宇多田ヒカルという、恐らく科学者になっても漫画家になっても業績を残したであろう天才がこうやって音楽をやってくれてるのに余りにも彼女の孤軍奮闘感が強すぎやしないかという事だ。50〜60歳の大御所ミュージシャンでもヒカルには一目置いている。みんな期待はしている、が、それ故にヒカルには刺激が足りなさ過ぎる。自力で音楽を推進せざるを得ない。これでは厳しい。

ヒカルにも原因があるといえばある。どうにも、ルーツがわかりにくいのである。一応Popsなのだが、"どこからきてこうなったのか"が他のミュージシャンにはわかり難い。要は音楽的に絡みづらいのである。まぁ遠くに眺めていようかな、曲はいいんだし、となる。

アニメの例を出したのは、彼らには"利用できるもの"が沢山あるからだ。2010年代を代表する傑作「魔法少女まどかマギカ」は、魔法少女ものというジャンルをうまく利用した作品だった。材料として用いる為の流行や素材に事欠かないのである。そして、受け手がそれを受容している。邦楽の世界でそれをやろうとしても皆頭に「?」マークが浮かぶだけだ。何の準備も出来てはいないのである。

こういう状況の中でヒカルがモチベーションを維持しつつ復帰するのだったら、それこそこども向けの曲を増やした方がいいかもしれない。勿論先鞭は「ぼくはくま」な訳だが、ひとつの文化として邦楽がヒカルに何ももたらさないのであれば、何の予備知識もない、出来るだけプレーンな(そして多分とても残酷な)リスナーである幼年層を相手にしてみるのもやりがいがあるのではないか。ちょうど30代という事で1ジェネレーション、こどもの居る母親世代になる訳だから母から子へと語りかける視点を主軸にするのも悪くない。ぼくはくま、嵐の女神(いいタイアップだったな〜)ときて、さらにおとなからこどもへのメッセージを強化する事が、19歳のDeep River+に報いる事になるのではないだろうか。