無意識日記々

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死生観と時空観と人生観

死生観と時空観は密接に繋がりあっている。サザエさん時空の本質は、キャラクターが死なない事だ。これは別にアニメや漫画に限った事ではなく、実写の水戸黄門だって同じ思想の下に作られてきた。それが視聴者のニーズであったから。

宇多田ヒカル宇多田ヒカルのファンであるかどうかは、少なくともこの名前の下において、生きていたいから生きているかどうかという問題と同義である。そして、その名前が生命としてどういう特質を持つのか、はじまりはどうなっているのか、終わりはどうなっているのか、という問題と繋がってくる。

日本の伝統文化、歌舞伎や落語や大相撲の世界には「名前を継ぐ」行為がある。いわば、その名前の下に芸は死なない、つまりその"芸能人"(凄く本来の意味で)は永遠に生き続ける水戸黄門の世界に入り込む。水戸黄門自体、役どころとはいえ何代目水戸黄門というような言い方をするから落語の世界と変わらない。

歌舞伎の世界だと世襲が多い為、果たしてその世界で生きたくて生きているのか、外からは判断が難しい。商家で屋号を継ぐのと同じ感覚だろうか。小学生の頃「いいなぁお前んちは就職グチ決まってて」と言われるパターン。生命が概念化されその世界を生き続ける、という構図はアニメ漫画だけでなく普段の生活の至る所にみられるものだ。

なので、別にヒカルがヒカルのファンである必要はないし、理由なんてどうでもいいのかもしれない。音楽家なのだから、自ら望んでだろうが他者に請われたからだろうが、いい曲作っていい歌聴かせてくれるならそれでいい。ただ現在の状況が違うのは、その名前に戻るモチベーションが今どこの誰にあるか、という問題が横たわっている事だ。

照實さんのニュアンスだと、未だに一定量のオファーはあるらしい。ならばそれを断らなくなれば復帰復活ではある。そして、ひとたび受ければ、母親譲りの妥協無い集中力で見事な作品を作り上げるだろう。前述の通り、はじまりとおわりは他者との関係性に基づいて生まれてくるものだからそれはそれでいい。ただ、じゃあそれっていつ、何が原因で「オファーを受けてもいい」と思えるものなのか、そこがわからない。

KH&EVAの場合は、断る事が周囲から想定されていない。その為、桜流しは人間活動の真っ只中にあってもオファーを受け見事な作品に仕上げた。極端な話、ずっとこの状態を続けるというのも"伝説のアーティスト"としてはアリである。普段は隠遁生活を送っていて、ほんのたまに厳選されたオファーのみを受け付けそれを(近影を見せる事なしに)発表しまた隠遁に戻る、みたいな。隠れキャラっぽいな。それはそれで成立するだろう。桜流しスタイルが宇多田ヒカルスタイルになるのだ。

それを突破するものといえば結局ライブしかない。ヒカルが様々なアーティストのライブに行く中で「俺にもステージに上がらせろ」と思い始めればチャンスではある。ライブ=LIVE、即ち生きる事、生(ナマ)、生命。そこは何か理屈じゃなく衝動な気がする。それ以上に興行だし商道な気もするけど、そこがどうなるかが、分かれ目になるだろう。来月もWOWOWでLIVEDVDの放送があるらしいよ。