無意識日記々

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わたしたちの妥協点

"僕たち"というと、僕っ娘設定でもない限り男子だが、"わたしたち"というと女子男子どちらも有り得る。寧ろ"有り得ない"のが男児のケースだといえる。然るに、Passionラストの"わたしたち"は、まずは少なくとも"(最早)少年ではない"とはいえる訳だ。

とはいえ、前段で"僕たち"と言っておきながら敢えて"わたしたち"を使っているのだからやはりそこは意図を汲み取ってこの2つの代名詞は異なる主体を指していると解釈すべきだ、という議論も勿論成り立つ。

ここは、僕もよくわからない。結論からいえばね。

ただ、指摘しておきたい点が1つあって。それは、勘のいい方は既にお気づきだろうが、"音韻上の要請"の存在である。

メロディーに沿って歌詞を読み返してみれば、『わたしたちに出来なかったことを』に対応する節は『昔からの決まり事を』である。即ち、"むかし"に対して"わたし"が割り当てられているのだ。メロディーの拍割りとこの頭韻を踏みたいが為に、本来なら"僕たち"をあてたかったこの箇所に妥協して"わたしたち"をあてたのかもしれない。そう推理する事も出来る。となれば、前回立てた「女性が女性に片思い」という仮説はあんまり成り立たなくなる。いや本当のところはどうだか、相変わらずわからないのだけど。


歌詞を読み解くにあたって、この、「妥協」というのが大きなポイントとなる。ヒカルの書く歌詞は、ここ数回見てきたのでわかる通り、恐ろしく緻密に構築されている。どんだけたくさんの縛りをかいくぐって歌詞を成立させているかわからない。ここまでくると、読み解いている側は疑心暗鬼に陥ってしまって、取るに足らない語の選択にも何か意味があるんではないかとひたすら訝る事になる。この隘路に陥る危険性は常にある。

そんな時に、ヒカルが「ベストではないけど、ここはまぁしょうがないか」と踏ん切りをつけた箇所を見抜ければ、途端に肩の荷が降りる。踏み込んでいえば、ヒカルが妥協した箇所まで見いだしてそこで漸く歌詞の解釈は一段落するといえる。

例えば、ちょうど一年前のエントリーに書いたように、意匠に満ち溢れてたGoodbye Happinessの歌詞構造の中にも、ひとつだけ音韻を踏襲できなかった"汚点"がひとつだけあって、それが『汚れ』という単語だったりしたのだが(唯一の汚点が汚れだなんて出来過ぎだ、というオチがついた)、ここに至って私はやっとGBHの歌詞をある段階まで理解したんだなと実感できた。全部かどうかはわからないけど。そういう安堵を、妥協は与えてくれるのだ。ありていにいえば「ヒカルも人間なんだねぇ」という事だ。こういう話題を書き続ける時には、妥協点は常に救いを与えてくれる。

だからといって、Passionの"わたしたち"が妥協の産物なのかどうかは、未だ結局わからない。更なる他の要素から推測して仮説の確度を高めていくしかない。それは、面倒だけれどとても楽しい作業である。Keep Tryin'とPassionの歌詞の話は、まだまだ続いていきますよ。