無意識日記々

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変の不変、不変への変

人間活動は、変わる為なのか変わらない為なのか。

解き解して問い直してみよう。12年間頑張ってきて、その間に落としてきたもの、得られなかったものを手に入れる期間を設けたという事は、宇多田光自身に関しては必ず某かの、今までにない変化や成長がある事だろう。問題はそれが、アーティスト活動に対しては果たしてどうなるのかという事だ。

もし人間活動で得たものをそのままのコンセプトでアーティスト活動に還元するとすれば、先般触れたように、"予測可能な"活動形態、即ち、一定の品質、決められた数量、約束した納期といった点を重視した、より商業的工業的活動にシフトするのではないかとも考えられる。いや勿論今までだって納期はきっちり(ギリギリで)守ってはきてるのだが、その具体的な設定自体がコントロール可能になるという感じだ。

勿論これは、考えられる変化の一例であって、人間活動の中身と、光の人生における位置付けがわからない以上、どんな解釈でも考察可能だ。例えば全く真逆の、アーティスティシティ全開のエキセントリックな活動形態に変化する事だって考えてもいい。しかし実生活では、マネージャーなしでも何でも出来るというアンバランス。ちょっと面白い。まぁリリース間隔が超不定期になって、1年おきと10年おきが交互に繰り返されるとかになったら戸惑うが。


他方、"変わらない為"とは何なのだろうか。もし仮に、アーティスト活動を休止せず13年目もそのまま突っ走っていったら、今までの活動形態や制作態度が維持出来なくなる恐れが出てきていて、ここらでいっちょ大幅に空気を入れ換えて、また新たな気持ちで今までと同様の形態で活動していこう、そんな心積もりで今人間活動に専念しているのかもしれない。即ち、戻ってきても、数年の間隔が空いたというだけで、我々は何も戸惑うことなく今まで通りに光の事を応援できる。"いつものひかるちゃん"が結局そこに居る、という訳だ。これが多分、大方にとっていちばん望ましいだろう。

しかしヒカルの場合、何が"いつもの"かといえば、いつリリースになるかわからないシングル、いつ更新されるかわからないメッセ、全く予測のつかないツアー日程、次々と導入される新しいメディア、そして何ら"型"をもたない上に流れも読めない千変万化の音楽性と、"常に変わり続ける"のが"いつもの"状態である。常に予想を裏切る事で期待に応える。誰が最初に言い出したか知らないが、それがヒカルの真骨頂である。

まとめると、こうなる。人間活動は、変わらないように変わる為なのか、でなくば、変わり続ける事が変わらないようにする為なのか、果たしてどちらなのか。完全に"禅問答"になっているが、だからこそ見極めが難しい。この答を知れるのは当然実際に戻ってくるまでは待たなくてはいけない。それまでは想像の翼をのんびりのびのびと広げ、羽を伸ばしておくことにしよう、かな。