前回は『休養でも充電でもない』発言に拘ってみたが、話が余り面白くならない事を自覚しつつ引き続き今回も拘ってみたい。
アーティスト活動に対して人間活動が休養でも充電でもない、と2010年8月の時点で書きたくなったのは、つまり「さーこれからお休みだゆっくりするぞー」ではなく「さーこれからも気合い入れて頑張るか」という気持ちだったからと推測される。派手にメディアに登場しないけれど私が頑張る事には変わりない、私にとってはアーティスト活動も人間活動もそれぞれに重要、という意思表示。であるならば、今後も度々アーティスト活動と人間活動が入れ替わる時期が挟まれるのだろうか。それぞれに重要、だからといって別に時間配分が50/50になる必要はないが、そうなったとしても不思議はない。そういう"左右対称"な活動としてアーティスト活動と人間活動を捉えているならこれが休養でも充電でもない、と言うのは理解出来る。お馴染みの「二足の草鞋」最新版というヤツだ。今までは、例えば学生とミュージシャン、宇多田とUtada、みたいな感じだったが今度はアーティストと人間という…
…しかし、だとすれば難しい。15歳からアーティスト活動をしてきて人として大事なところが成長せずに来た、という話だったが、そこまで互いに相反するのであるならば、人間活動中はアーティストとしての成長が止まる筈である。どちらもそれぞれに重要、というのであれば、常に片方を犠牲にしてもう片方を育む、という形をとらざるを得ない。
それこそが、人間として破綻した形であると思うのだ。
人は誰でも葛藤を抱えて生きている。学生であれば勉強と部活と交友のバランスとか、職業人であれば家族と仕事をどう大事にするかとか。しかし、だからといってそれらを切り離してしまうなんて事はしない。常にごちゃ混ぜの中であっちこっちしながらどうにかやりくりをして生きている。毎度自分で使ってて変な言い方だなぁと呆れるが、それが"普通の生き方"なんだと思う。
つまり、人間活動宣言をしている時点でまるで普通ではない。"人として大事な部分"は恐らく日常生活の中では些細な表現形態をとるだろう。今も光は着々とそれを進めているに違いない。だとすれば、アーティストとしての成長を止めてまで(止めているかもしれない可能性を孕んだまま)"人間"として成長した挙げ句に、何になっているのだろう。こちらからみれば、ただ宇多田ヒカルが、去った時のままで帰ってくるだけだ。何の不満もない。そしてヒカルは、"マネージャーなしでは何もできないおばさん"を回避し、何食わぬ顔で仕事に打ち込む…
…として、その間に止まる"人間としての成長"は、どうなる? やはり難しい。何がどうなってるんだろうこれ。次回も続くのかよこれ。ちょっと憂鬱だな。(笑)