無意識日記々

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そうね、壮年だね

ZABADAKの、というか吉良知彦「夏秋冬春」を聴いてると、人間50代半ばになってからでも自身にとっての"最高傑作"を更新出来るもんなんだなぁ、と思う。

ヒカルはよく、年老いてからも(音楽の)仕事をしている自分の姿を想像できない、と言う。引退して欧州の片田舎で絵でも描いてるんじゃないかとかね。確かに、もう十分過ぎる程社会に貢献したし、それに見合った(と言えるのかどうか知らないが)資産も得ているのだから「どうぞご自由に」としか言いようがないのだが、一方で「今の時代に音楽家やってて50歳や60歳で引退と言われてもねぇ」というのもまた私の本音だ。

先の事はわからない、とは言うけれど、だったら「辞めてるか続けてるか全くわからない」とでも言っておけばよいものを、何故か辞めてる方向にヒカルが解釈しがちなのは、毎回「これが最後の作品になるのかも」と出し惜しみなく創作に打ち込んできた結果だろう。その時その時は"次回作"なんて想像もつかない。納期を過ぎればあらゆる苛立ちから解放されるという希望を胸に創作に励んで…おきながら毎度空っぽになった自分を充填してここまで来た訳だ。

それがこの度の人間活動期の突入によって潮目が変わる。ヒカルが"予定を立てた"のだ、「必ず戻ってくるから」と。確かに無期限ではあるのだが、"随分先"の話をしたというのには変わりがない。

これによって、ヒカルの中の"引退観"にも変化があった筈である。特に、20代から30代にかけて、少なくとも5年間表舞台に立たなかったという事実は人生設計を大きく左右する。同じ40年働くのでも40年ずっと働き続けるのと20年働いて5年休んで20年働くのでは全く違う。ヒカルの考え方や、何より"気分"が変わらない訳がない。

超一流のミュージシャンとしての"一人前"は、前も書いた通り、フェスティバルのヘッドライナーを務められる事だ(と私は思っている)。若手たちに皆に触れてもらう機会を与えてシーン自体のdriving forceとなれるかどうか。

宇多田ヒカルというブランドにフェスティバルのイメージは全く無い為、この基準を当てはめられる機会が実際に来るとは思えないが、15歳にしてトップミュージシャンとして現れた以上、何かそれに匹敵する所まで上り詰めてくれないかなと思う。枚数や金額で図抜ける事が出来ればそれに越した事はないが、何より、自分で『…これすげーんじゃねぇの?』と言える作品を作れるかどうか、その基準からすれば、32歳とかまだまだ若造であって、引退とかちゃんちゃらおかしい、そんな"気分"になれたらな、と思って今回は煽ってみました。でも実際楽しみだよねぇ、60歳のHikaruがどんな作品を作るかって。今より更に平均余命伸びてたらまだまだ老人とは呼べないかもしれないけれど。