無意識日記々

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"一意的に定まる歌"

続き。言葉はそうはいかない。何故なら本質が「無関係なもの同士を結び付ける」だからだ。そこには実在物としての一意性はない。ある意味を表す単語の表象としてあの図形を選んでもいいしこの音声に決めてもよい。ひとことでいえば"どうとでもなる"のだ。今度はこれが"自由"の起源なのだが、だからこそ世の中には数百万という言語があるし、それらを相互いに翻訳可能なのである。

逆にいえば、そうやって"自由な"表象を得た各々の言語が、そのそれぞれ異なった表象を用いて同じ内容を表現する事も当然ながら有り得る。そのような内容は言語の各表象によらない何か"普遍的な"意味内容をもつだろう。「太陽は東から昇る」という日本語は、そのまま書いて見せても読んで聞かせても日本語を解さない人には通じないが一度び翻訳されれば皆が合点がいく。表象としては普遍性はなくとも内容は普遍的且つ一意的な価値をもつというのなら有り得るのだ。

歌はそうはいかない。如何にそのような、「太陽は東から昇る」レベルの普遍的一意的な内容を語っていたとしても、「タイヨウガヒガシカラノボル」という音素の並びはどうしようもない。こうやってメロディーに音が載ってしまっている以上、この縛りからは逃れられない。従って、歌詞を翻訳するという作業は大抵紙の上でのみ行われ、メロディーの上に載せるとなると全く違った創作活動に突入する事となる。日本語の音声で表現されていた抑揚や押韻をどうするか、いちから考え直さなくてはならない。ジェイムズ・ジョイスの翻訳作業みたいなもんである。

こういう状況において、"歌詞の正解"という思想は、一体どういったケースで考察可能なのか、考えようとする気が起こらない位難儀な問題である。意味内容が普遍的でも、音の並びとしてメロディーに一意的に当てはまるだなんてあるのだろうか。音の並びとしてメロディーに綺麗に載っていても、果たしてそれが普遍的な内容を表現できるのだろうか。いや恐らく、殆どの場合前者は音の並びとしては不自然になり、後者はそもそも文章として意味を為さないだろう。

つまり、一意的に定まる歌とは、「太陽が東から昇る」と「タイヨウガヒガシカラノボル」が同等の必然性をもつメロディーを備えているのだ。奇跡とかいうレベルじゃないと思う。そんなだから"夢"と表現させて頂いたが、光なら実現させてしまうかもしれない。彼女に寄せる究極の期待とは、私の場合それである。