無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

何だかやたらとスケールの大きな話。

音楽について表現の自由が問題になるのは歌詞や語りがある場合であって、それが器楽演奏のみ、或いは声楽であっても言語を擁さないもの(スキャットなど)であれば、その自由が侵害される危険性はほぼないと言っていい。どれだけ悲しい音楽だろうが、どれだけ怖い音楽だろうが、インストで発売禁止などになった例を私は知らない。

そんななので私は器楽演奏をしばしば「ユートピア(utopia/楽園・理想郷)」と呼ぶ。その純粋さを誰も侵す事は出来ない。邪魔の入らない美、茶々を入れられない魅力、仮借無い存在性。あなたが宇宙のどこに居ようが、耳と心が繋がってさえいればその齎す愉悦に浸る事が出来る。それは、地球人でなくとも同様かもしれない。

言葉は本質的にローカルなものだ。その時その場所その人その文脈に依存する。故に歌の歌詞は音楽以外を巻き込む為、あらゆる問題に首を突っ込むようになる。「穢れる」と一言で言ってしまえば簡単だが、そうでもない。歌のメロディーは、依然としてユートピアの住民である。言わば、歌はユートピアとそれ以外を繋げてしまう魔力を持っている。それを歌ったのがGoodbye Happinessで…という展開にすると独り善がりに過ぎるのでそこから先は各自が妄想して欲しい。アダムとイヴは知恵の実を食べて楽園を追放されたが、もしそれが歌の実だったら楽園を我が家として日々冒険に繰り出す物語になっていただろう、かな。

しかし、「強すぎる楽園」というのも私の頭の片隅にはある。ヒカルがモーツァルトのレクイエムを聴いて、ラテン語はわからないのに歌詞の表すメッセージが伝わってきたという話をしていた。これには2つの解釈がある。ひとつは、ラテン語の語彙や文構造には英語と共通するものがある為、英語が堪能なヒカルの無意識が語彙の断片から有り得べき意味の通る文章を構築・創造した、という見方。ヒカルが天才だからメッセージが伝わった、と。

もうひとつは、言葉が通じなくとも、声楽のニュアンスや器楽の表現によって、レクイエムという音楽がその場面の感情を一意的に描写してしまっている可能性だ。こちらは、ウォルフガング・アマデウスモーツァルトが天才過ぎるという解釈だ。器楽も突き詰めれば人間の感情として一意的な意味を持ってしまうかもしれない。もし音楽がそこまで行ってしまえるならば、その音楽は人類最初の、ローカルでない、グローバルな言語となろう。そして、それが言語であるからには、楽園を飛び出して、人々の有象無象の中の混沌に身を投じ、あらゆる問題を連れてきてしまえる。それが望ましいかどうかはわからない。ただ、それは、「問題の解決」とは異なる、人の営みの全く新しい何かを生む事になるだろう。それは、人類が言語を獲得した以来の革命的な出来事となる。

流石にそれは、凄まじく遠い。人類最高峰のモーツァルトの最高傑作ですら、「…かな?」という程度なのだから。ただ言えるのは、歌というものが、「人の終わり」すら司れる程の力を持つ営みかもしれない、という事。それ位の"危機感"を持ってヒカルには新曲を作って欲しい。ヒカルなら日本語を滅ぼす事位出来るかもしれない。いや、その後新しい何かに生まれ変わるんだけどね。