無意識日記々

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より普遍的に、より個人的に。

「これだけ離れてたらファンの顔って見えなくなってこない?」「なんの。たとえそうだとしたって1枚目はそういう状態で作って何百万枚も売れたじゃないか。寧ろこれはチャンスだよ。」というのが、まぁ前回のお話でした。

主にこれは、歌詞の話かもしれない。メロディーにも確かに地域性や時代性、流行というものがあるが、実際はどちらかといえば"作曲家の個性"が先に来る。話の順序としては、その時代に最も売れた作曲家のメロディーが"時代の音になる"、のだ。結果論として。裏を返せば、メロディーは別に時代を追随する必要はなく、現代にたとえ大正歌謡や軍歌のようなメロディーを書いたとしても、サウンドや歌詞がモダンであればヒットする見込みは出てくるのではないか。

一方、歌詞は同時代的に共感を呼べなくては始まらない、という面がある。ブルースや演歌のように歌詞の定型を踏襲する"決まり"のようなものがある場合でも、結局、そのコミュニティーで通用する言葉を選択している訳で、同時代的な歌詞以上に狭い世界を狙ってるともいえる。

これらは、本質論である。メロディーは地球を超え宇宙規模で普遍的な美を宿す可能性をもつ一方、言語はどこまでいっても約束事、ローカルな性質を本質として持ち続ける。言葉は、相手との約束無しには通じないのだ。

結論を書いてしまうと、メロディーはより普遍的に、誰にでもわかりやすく、そのよさが忽ち伝わるものがよい。「あーはいはい、これはイイ曲だわ。」と皆に言わせるものが求められる。一方歌詞は、より個人的に、「もしかしたらこんな事考えてる/感じてるの私だけ?」と思えるくらいに局所的な、普遍性から遠ざかったものに"してみる"のが大事だ。なぜなら(繰り返すけれど)それが言葉の、言語の本質だからである。局所性の為に、そこでしか通じない、通らないものの為に言葉は用意されている。

どちらも、度を越すと相が変わる。メロディーに普遍性を求めていくと、いつのまにかありきたりで面白みのない所に辿り着く。ただドレミファソラシドと1音ずつ(いや途中二回半音だけども)上がっていくだけのメロディーは、普遍性という点では右に出るものは居ない(宇宙人もたちどころにそれが何であるか"理解"できるだろう)が、それが"興味を引く"とか"魅力がある"とかいえるかというと別である。使いどころとか、リズムとか、様々な要素によってひとひねり加えないとただありきたりなだけのメロディーだ。普遍性は行き過ぎると魅力を失いただの背景になる。

歌詞には更にもっと不思議な事が起こる。自分しか感じていないと思っていた言葉をカタチにすると、次から次へと「私の感じてた事をどうして知ってるの?」という声が起こってくる。誰にも話していないのに、私だけしか感じていないと思っていたのに―極私的、極個人的だと思っていた事が突如普遍性を帯びる。そういう歌詞は強い。そして、それが宇多田ヒカルの真骨頂であった。


話がやや抽象的に過ぎるかな。しかし、私も未だに正確に理解・把握出来ていない事について話しているのだから仕方がない。メロディーとは、生まれてしまえば自信が持てるものだ。その美しさはもう目の前にあるのだから。生んでしまえばそれが成果だ。普遍的とはそういうことだ。僕らが死んでも、未来人が同じメロディーを聴けば美しいと感じてくれるだろうという期待が持てる。

歌詞はなかなかそうはいかない。伝わったかどうか、人に聞かないとわからない。約束事だからだ。もしかしたら、自分の中でだけの約束事で綴られた、社会的には無意味な羅列であるかもしれないという猜疑心がどこまでも本質的に残る。それは誤解だと更に言葉を積みたくなる。だから、伝わった時の嬉しさは格別で、今、誰に伝える為に歌詞を書けばいいのかという問題提起はとても核心的なのである。

ただ、更にもう一段抽象性を上げた時に現れてくる、"詩の美しさの普遍性"というヤツが言葉の世界にはあるのだが今回そこまで踏み込んでしまうと行き過ぎになるんでそれはまた別の機会に。