無意識日記々

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In The Fleshリリースのもう1ッの効能

UU06でのUtaDAパートは導入部から構成からライティングから"人を寄せ付けない"タイプの演出が為されていた。これは恐らく、光自ら"開眼"と名付ける2005年2月23日のNYショウケースギグの再現を狙ったものであったと思われる。

その時の感覚の源泉が、極端な表現をすれば「誰も私を見ていない」という状況にあったと分析するならば、UU06の万単位の聴衆を前にしたセッティングでその状況を復活させるには舞台と客席を遊離させ"別世界"として演出する必要があった、とも考えられる。闇姫様の衣装もノーMCもその世界を構築する要素の一環だったと捉えるべきだろう。

したがって、その徹底した異世界観により、元々UtaDAの楽曲に疎遠だった人たちには余計に遠い世界としての印象を植え付けてしまったかもしれない。勿論、あの徹底ぶりによってUtaDAの素晴らしさに目覚めた人たちも大勢居ただろう事を考えれば、これは単なる嗜好と選択の問題であって、特に失敗だとは感じない。が、これによって英語で歌う光の人物像が少し違って伝わったのではないかという危惧がある。もう6年も前の話だが。

実際のLIVEコンサートでのUtaDAは、喋ってる言葉が英語にかわっただけで、人間的には何も変わらない。少しシャイで、何となくおどおどしていて、でもやっぱり底抜けに楽しげで、歌い始めるとそれなりに落ち着きはじめ堂々としてくる。でMCに戻ってくるとやっぱり控えめ。宇多田ヒカルの時と何も変わらないのだ。

もしかしたら、In The Flesh の映像をリリースする事は、その偏り気味な、英語で歌う光の印象を少し和らげるかもしれない。ああ、言ってる事はわからないけど喋る姿も歌う姿もいつもと変わらないヒカルちゃんだ、と。パフォーマンスと楽曲の素晴らしさは言うに及ばないが、ライブハウスというセッティングも相俟って、Unpluggedやイケイケ以来の、ヒカルを身近に感じとれるLIVEコンテンツに成り得るのではないだろうか。

でもやっぱり言葉の壁は大きい。たとえ日本語字幕をつけても、それで疎外感を感じるリスナーも少なくないだろう。それならいっそのこと、MCは字幕に加えて吹き替え版も作ってはどうか。そうなると声をあてるのは声優さんではなくヒカル本人という事になる。だって同じ声で日本語喋れるんだからこれ以上の適役はいない…

…ないな、ない。(笑)