無意識日記々

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In The Flesh 10周年

10年前の今日、『Utada In The Flesh 2010』米英ツアーがハワイホノルルのパイプラインカフェから始まった。当時そこに居合わせた者としては実に感慨深い。あれから10年か。

毎度言っていることをまた繰り返すけれど、普段の『宇多田ヒカル』としての活動は宇多田ひかるさんとしては完全体とはいえない。英語の歌が殆ど含まれていないからだ。そもそも最初の最初にまで遡ればヒカルが曲作りを始めた当初歌詞は英語だった。普段聴いてる音楽が英語の歌だったのだから当然だ。で、その後14歳の時に三宅さんに「日本語で書いてみないか?」と言われて『Never Let Go』を書いた所から『宇多田ヒカル』の歴史はスタートしている。英語の歌は、その前からあったのだ。

故にUtadaとしての制作は英語の歌なのでこちらの方が本来の……と言いたくなる所だったがそうなるまでにヒカルは随分と日本語の歌手として音楽家として成長してしまった。流石にあれだけの名曲を数多生み出しておいて日本語音楽家としてのアイデンティティを無視する訳にもいかなくなった。寧ろそっちがメインとなった。

故に、2010年当時は、日本語音楽家としての宇多田ヒカルと英語音楽家としてのUtadaの各々の活動を入れ代わり立ち代わり或いは並行して進めていくのが自然なのかなと思いかけていた。初のクラブツアーとなる『Utada In The Flesh 2010』もその一環で、英語歌手としての活動だろうというのが事前の予想というか、そのつもりでホノルルまで行ったのだ。英語圏の国で英語の歌を歌って英語のMCを話し、という。

しかし、蓋を開けてみれば、英語の歌は当然として日本語の歌も歌う歌う。『SAKURAドロップス』に『First Love』に『Can You Keep A Secret?』に、更には日本でまだ生で披露したことのなかった『Stay Gold』まで飛び出した。

極めつけだったのは英語歌詞の『Sanctuary』と『Passion』をフュージョンさせた事だった。日本語とも英語とも自在に戯れられるヒカルの真骨頂だった。

即ち『Utada In The Flesh 2010』は、ヒカルの日本語のペルソナと英語のペルソナのうち英語のペルソナの方─片方の活動であるという事前の枠組み予想を覆し、宇多田ヒカルUtadaも分け隔てなく扱う、自由極まりないコンセプトだったのだ。その時初めてヒカルは、26歳にして自分の持っているスペクトルのほぼ総ての帯域を使ってライブコンサートを作り上げたのだった。

故に、ある意味で、10年前の今日2010年1月15日というのは、宇多田ひかるさんが初めて“完全体”として皆の前に現れた記念日でもあったのだ。またこういう日が訪れる事を願って止まないが、果たして、あるとしても、それはいつになるやらだなぁ。