無意識日記々

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本来的な矛盾

ラジオをやってもお便りをくれるのは元々熱心なファンだろうし、LIVEをやってもある程度それはそうだろう。本来ヒカルが相手をすべき「普通の一般人」に直接アクセスできる手段ではない。しかし、まずはそこから始めないと始まらないんじゃないかとな。

この「普通の一般人」という虚像が、難しい。これをどう捉えるか。そもそも捉える必要があるのか。今でも宇多田待望論は根強い。アイドルばかりのチャートに辟易している人たち。彼らの期待に応える事自体には価値があるだろう。しかし、それで商業的成功が見込めるかといえば否だ。今のチャートに辟易している人たちは、ヒカルが戻ってきたからといってCD等を購入したりはしないだろう。Youtubeでチェックして「やっぱり宇多田はいい!」と呟いて、終わり。これではアイドルに敵う筈もない。同じ曲のCDを何枚も買ってくれるのだからスタート地点が違う。

いや、宇多田のCDを複数買いしろと言ってるんじゃなく。AKBファンがAKBに注ぎ込む金額を、多種多様なアーティストの音源に注ぎ込むかというとそうじゃないだろう、という話。そこまでして聴きたい音楽もないし。その通り。今の邦楽はAKBやジャニーズの魅力に負けているのだ。素直にそこを認めるところから始めないといけない。

宇多田ヒカルが、その実力から本来居るべき場所は邦楽市場そのものを広げる立場―早い話がトップであるべきなのだが、それがヒカルのやりたいことかといえば「さぁね?」 そこは勿論本人の自由だ。商業的にみれば最大収益をあげるような活動をすべしとなるのだが、ヒカルは"アーティスト"だ。そう呼ばれる事が喜ばしいかはさておいて。作品作りが先にある。

開き直って「売れたい」と言い始めてくれれば楽だ。ここに本来的な矛盾がある。通常なら、自分なりの音楽性を貫き通すなら一部の熱心なファンを相手にそれなりの規模で活動するだろうし、渋谷陽一の言うように「他者の音楽」―Pop Musicに携わるなら上限なく商業的成功を追求するものだ。ヒカルはそのどちらでもない。他者の音楽に携わりながら商業的成功に貪欲でない、というもどかしい組み合わせなのだ。UTUBEのPVほぼ全曲フル公開なんてその典型例で、あんな事すりゃわざわざ購入する人は激減するだろうにファンサービスであっさりやっちゃう。苦笑いするしかないが、特に若いファンには有り難い事この上ない訳でな。宇多田のLIVEに友達から誘われたけど曲知らないや、となった時にUTUBEですぐに一通り予習できてしまう。せめてSingle Collectionを、と言っても無理だよねぇ。

その矛盾を、どう解消するか。或いは、ずっとそれでいくか。マス(大衆)を相手にする人がマスメディアとの折り合いが芳しくない、というのもこの状況に拍車を掛ける。何かいい"生き方"はないものか。これはずっと模索し続けていくテーマなのかもしれない。