無意識日記々

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光とヒカルの時間の奪い合いの話

宇多田光が"Goodbye Happiness"のPVを手掛けて成功できたのは、映像に対するセンスというより(勿論それもなければ話が始まらないが)、彼女がファンから自分に向けられる目線を的確に把握していた事実に拠る所が大きい。自分がどんな風にみられているか、どんな風に感じられているかを知っているからあのPVは作られた。もっとも、公開直後の@utadahikaruのツイートを読むと、その"程度"を過小評価していたらしい事はわかる。だが、方向性は間違わなかった。これ以上は無いという程のアイデアだった。

その直前にMySpaceでコンテストを行っていたのも大きかった。幾らものファンが自分の歌を録画して送ってくる。その新しい世界観に自らも飛び込んだ。何もかもが思い入れとの共鳴によって形作られていた。

果たして。この5年のブランクである。率直に言ってGBHPVのような傑作ミュージック・ビデオがすぐさま生まれるとは思わない。勿論、誰か一流の映像監督を連れてきて豪奢なPVを撮影する事も出来ようが、GBHPVは共に歩んできた歴史に訴えかけているのである。その威力に容易に追い付く事は出来ないだろう。

そう考えると、「映像監督:宇多田光」のクレジットは、更に暫くお目にかかりそうもない、という結論を得る。桜流しのビデオが河瀬監督によるものだった事実をどう捉えるかでやや観点に変化もあるかもしれないが、大勢は変わらないのではないか。

5年間で離れてしまった距離をどうまた縮めるか。当たり前だが、GBHPVが感動的だったのは、新曲としての素晴らしさとアーティスト活動休止という背景ありきだった(なくても素晴らしいけれど、旗持って歩かれてもちょっとわからないだろうね)。今度はノスタルジーは逆に禁じ手になる。復帰が過去の栄光に縋ったものではない事を示さねばならないからだ。

いやま、光自身は自然体だろう。自信もある。いつだって不安と心配を抱えているのは俺らの方だ。ただ、それでもそれは音楽面に関してであって、映像監督宇多田光がいきなり復帰するシナリオは幾ら何でも描けない。例外は、この5年で光が映像について本格的に学んだ期間があった場合だが、どうにも光はそういう事してないんじゃないのという風にみえる。根拠のわからない勘の話なので聞き流して。

第一、冷静に捉えると、これはジレンマである。光がPV撮る位ならその時間と労力でヒカルが新しい曲を一曲作ってくれた方がいいのに、という見方もあるからだ。余程ハイレベルな(ファンに受け入れられる)ビデオを制作しないとこの批判は免れ得ない。

とりあえずそれに関しては、「クリエイティブはパースペクティブからインスパイアされるケースもある。」と反論しておく。要は気分転換したらいい新しい着想が得られるかもよという話だ。確かに、5日もあれば一曲書けてしまうヒカルの時間を割くのは勿体無いが、アイデアは出ない時は出ないのだ。そういう時は色々やりましょうや。

なんだか、Kuma Power Hourを経て益々「自分で出来る事は自分でやる」アティテュード(DoTAY=Do them all yourself)に拍車が掛かってそうで戦々兢々だが、体調を崩さない限り好きにやってくれたらいい。母ちゃん倒れたら誰がダヌパに乳やるねんな。多分今度こそ大丈夫やろうと思っとく。