なので、宇多田光氏には期待している。プロモーションビデオ/ミュージックビデオの監督として、以上にもっと一般的に、音楽について視覚刺激をどうするか、という面に於いてである。
ただ、Goodbye Happiness Videoは些か反則であった。宇多田ヒカル12年の歴史に訴えかけたのだから。あんな"集大成"な内容を素朴に見せつけられては感動するなという方が無理である。それは無論、GBHの曲調自体が集大成的であったから選択できた方法論な訳だが、それにしても卑怯である。自分の力で積み上げてきた歴史を使っただけなので文句の言いようがない。嗚呼卑怯だ卑怯だ。
誰もこのままは真似できないが、しかしヒントには成り得る。曲調が集大成ならば映像も集大成にしよう、とスラッと言って成してしまうのは難易度激高だが、まずはこうやってシンプルに考えてみよう、という点は参考にできるかもしれない。音楽家がまず先にある音楽に映像をつけるのだから映像が主役になりようがなく、したがってそこには強い主張はない。ひとことでいえばうざくない。ありそうでなかなかない、ここらへんのバランスセンスをどうにかして見極めたい。
GBHのメタコンセプトはYoutube、或いはもっと広い意味でニコ動なども含めた動画投稿サイトの、"歌ってみた"のパロディである。普通は一般の人(だからそれは誰なんだ)が有名人の歌を歌ってみるところをとてつもなく有名な人が真っ先に自分"歌ってみた"動画を投稿した、というシュールさ。これが機軸になっているからラストのオススメ動画一覧画面も笑いを誘う。パロディであるという前提が共有されていなければあそこは笑えない。無駄に騙されて不愉快なだけである。これもまたバランスセンスだ。何とも巧い。
こう考えていくと、如何にGBHPVが理詰めに考えられ突き詰められているかが朧気に感じ取られてくる。こういう音楽があって、UTUBEが開設されて、自分が(有名人の)"宇多田ヒカル"で、今のご時世は動画サイト全盛で、そんな中にプロモーションビデオ/ミュージックビデオを投入するには、という様々な考えられるべき要点をひとつひとつクリアし具現化していっている。そう思い直してPVを見返してみるとその表現の無駄のなさと懐事情に優しい素朴で簡素な演出(お財布コントロールはディレクターにとって必要不可欠な才能だ)を、初の監督作品でここまで見事に発露しているのには恐れ入る。理詰めでひとつひとつ決めているから演出に迷いがなく統一感と流れのよさが自然に生まれている。最後のハトのように運まで味方につけれるのは、偏にその巧まれた自然体故だ。
今回は(ってもう2年近く前だが)GBHとUTUBEという組み合わせだったからこうなった。次に光が監督を務める時は、恐らくガラリと異なる結果を生み出すハズだ。同じアプローチでも、異なる楽曲と異なる状況が待っているだろうからだ。次の復帰時には、聴覚面だけでなく視覚面でも光に期待したい。