無意識日記々

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ですのよさ

かなり遠い将来になるだろうが、ヒカル主導のメディアミックスというのも、長い人生のうちでは一度くらいあるかもしれない。

原作の小説を書き自ら漫画化しテーマソングを作詞作曲プロデュースし歌いPVを撮る。ここまでならやれるだろう。そこからアニメ化や映画化や実写化していくにあたって果たして声優役が回ってくるか。以前述べたようにそこが焦点である。いやいやまぢで。

声優と歌手、同じ声をコントロールする職業である以上かなりの共通点がある筈で、カツゼツのよさやイントネーションへの拘りなどそのまま援用できる技能もあるだろう。

しかし、恐らくいちばん必要なのは"演技力"である。声優はまず俳優・女優即ち役者であらねばならない、とは頻りに聞かれる言葉である。光に"芝居"が出来るか。興味はそちらに移るだろう。

まぁ大抵ここで意見が別れる。歌手に役者の仕事をして欲しいか否か。「そんな暇があるなら唄ってくれよ」というのが本音な人もかなり多いだろう。たとえ光がべらぼうに演技が巧いとしても、だ。

余りに光に心酔していると、光がやる事だったら何でもいい、という領域に足を踏み込む。さほどファンでない人が「宇多田が芝居?やればいいんじゃなぁい?」と容認するのと結果的には同じになる。なんかちょっと不思議。

いずれにしてもいちばん気になるのは光にその気があるかどうか、だ。ただ、自分で小説を(或いは漫画原作を)書いて歌まで唄ってしまうと、主人公のキャラクターに対する思い入れと堅固なイメージが両方増幅してしまい、「私が自分でやりたい」と最終的に言い出しかねない。

光の場合、毎度そうである。「だったら自分でやればいいじゃん」と、自ら手掛けてしまうのだ。GBHPVも当初はメガホンとる予定はなかったというし。次からの仕事もそうなるんじゃないか。

今の光に訊いても「お芝居なんて」と断る公算が高そうだ。「三十路前のウェイトレス役なら何とか」位までなら言ってくれそうだけど。でもそれも、自ら本を書いてキャラクターに愛着が湧いてくれば別モノとなるだろう。

実際、光自身も、「ぼくはくま」をレコーディングした時は自らが着ぐるみを着込むまでに至るとは考えていなかった筈である。150万かけて自腹で着ぐるみを発注し、もし放置されたらそのまま死んでしまうであろうリスクまで負って何の益体もない会社訪問まで敢行した。いやまぁ結果的にはテレビCMやコンサートのオープニングアニメなどに活かされる事になるのでよかったのだけれど。

兎に角、光は気に入ったものは自分の手で成さないと気が済まない。気に入り過ぎると、自分がそれにならないと気が済まないのだ。「大きくなったらウニになる!」である(何のネタだ)。寿司のネタだな。(そ、そうっすか…)

という感じなので、光が小説を書き始めたら、その何年後かに主人公を自ら何らかのかたちで演じている可能性は結構ある。出来れば声優をやって、汚名を返上して欲しいものだが黒歴史って案外忘れ去られるの早いんだよねぇ。ファンとして無駄に拘り過ぎかな私?