無意識日記々

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#風立ちぬ レビューその7

アニメの声優問題に関しては、そもそもそれは何であるかに立ち返ってみて考えねばならない。

舞台演劇やテレビドラマ、実写映画などでは役者/俳優が出てきて演技をする。芝居をする。日常の何気ない一コマの一言でも、素で喋ったら何かしっくり来ない。芝居らしい身振り手振りや目線のやり方、仕草、もってまわった発声など、演技として成立させる技術が必要となる。

アニメーションの場合、それをどう捉えるかである。目の前にあるのは動く絵だ。人ではない。人の造形を描いてはあっても絵は絵である。お陰で、生物も無生物も機械も自然も人間でさえも、総てを"擬人化"して声や音をあてるのが可能だ。そこはとても自由である。

庵野秀明監督の声優起用に関して評価が分かれるのは、「風立ちぬ」という作品をどう捉えて鑑賞したかが異なるからではないだろうか。目の前のアニメーションを、実写映画や舞台演劇の代わりだと解釈し、そこに人間ドラマを求める―それは即ちくだんの"芝居がかった演技"を求める層に対しては、彼の声は技量不足も甚だしく、物足りない事この上無いだろう。芝居の世界に没頭したいのにあれだけ2時間ずっと棒読みじゃあねぇ…。

他方、その様に捉えない、必ずしもこの作品を、実写映画や舞台演劇のように捉えない向きにとっては、彼の演技力の無さは気にならないかもしれない。何しろ目の前にあるのは動く絵である。それは人の形をしているが人ではない。本来、どんな声をあてても自由な筈だ。根っからのアニメーターである宮崎駿監督が、自分の動かしてる絵の雰囲気に合った声や音をあてたがるのは当然の事で、それが芝居がかった演劇口調である必要もない。彼が庵野監督がよかったと言ったのは、他に理由はある訳ではなく、彼の声や喋り方が彼の動かす絵に合っていた、それだけの事なのだろう。

といっても、実際は主人公以外の声には、その、実写映画や舞台演劇を生業としているベテランの役者/俳優陣で固められている。その点も踏まえないと、"主人公だけ棒読み"な理由も、なかなか釈然としない。

いちばんシンプルな解釈は、それは彼が主人公で特別だからだ。主人公は観客の感情移入を促すキャラクターである。ならばその観客に対して二郎の木訥で誠実で頑固な性格に共感して貰う為には、素の、演技ではない口調が必要だったのかもしれない。実写でこれをやってしまうと芝居の世界観を壊してしまうが、アニメーションの場合は絵であるから、必ずしもその文脈に沿う必要はない。飛びそうもないモノが飛び、躍動しそうもないモノが躍動する"アニメの世界"では、そういった"破綻"もまた、重要な要素なんだと宮崎監督は言っているのかもしれない。

庵野監督の声について、私が不満だったのは、二郎の学生時代の声も彼があてていた事だ。演技云々の前に、流石に彼の壮年声で10代の台詞を言わせるのは無理があったように思った。まぁそれは最初の方だけで、社会人になって以降は違和感もなくなっていったんだけどね。