無意識日記々

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ただ「あなた」

ヒカル自身は日本での音楽の値段をどう考えているのか。勿論、「わからない」が答えなので、ここは真正面から行かずちょっと私らしい捻りを効かせてこう質問を変えてみよう。「音楽の値段はヒカルの創作に影響を及ぼすか?」

ちょっと考えるだけだとピンと来ない設問かもしれない。こう考えるのだ、もし安くなれば買う人は増える(どれ位かはわからないが)。それはつまり買う敷居が低くなる、そんなに思い入れがなくても取り敢えず買ってみよう、という人が増える事を意味する。そうなると、ファン層の色合いも変わり、ヒカルに返されるフィードバックのグラデーションも変化するだろう。となると、そこからヒカルの作る音楽にも変化が訪れる。

ここらへんの宇多田ヒカルのバランス感覚を語るのが難しい。ファンからのフィードバックによって作風が変化するといってもそこにはマーケティングの匂いはしない。ただ、自分の見聞きしたものが血肉になるというだけである。我々は、好きなものからも嫌いなものからも影響を受け、自分自身を変化させる。まさに"好むと好まざるとに拘わらず"、である。ただヒカルはそういった事に対して自然体なだけだ。

もう一歩踏み込もう。ヒカルには"所有"という概念がない。何かを所有していると思うから何かを失うのが怖くなるのだ。「生きてりゃ得るもんばっかりだ」という名文句が示唆するのは、積み重ねてきた時間こそが真なる財産であり、なるほどそれは増える一方で決して失いはしない。生きるとは時間を得続けることなのだからなるほど生きてりゃ得るもんばっかりである。

所有という概念がないとどういうことになるか。感情の存在を持ち主抜きで捉えるようになるのだ。誰がそれを感じたかは最重要問題ではない。その感情がこの流れる世界の時間の中で確かに存在した、という事実自体が価値であり財産なのだ。怒りも悲しみも憎しみも切なさも愛しさも心細さも(ハズしてみた)、何もかもがまず"そこにある感情"として認識される。それが自分の感情か他者の感情かはヒカルにとって大した意味はない。ただそこに感情が在ったと"知る"事自体がヒカルにとって意味があり、それによってヒカルという個体は変化し成長を遂げていく。

つまり、彼女にとっていちばん影響力が強いのは四六時中共に居る自分自身の好みなのだが、それと共に他者からのフィードバックを受ける時間もまた彼女の人生には存在する。その時間を得てまた彼女は変化する。そこで目を閉じるようなことはしないのだ。そうして自己と他者は混じり合い区別がつかなくなってゆき、やがて純粋に抽出された感情だけが残る。それにインスパイアされて、ヒカルは楽曲の命を呼び込むのである。


とすれば、やはりモノの値段は大きい。高額にすればするほどコアなファンからしかフィードバックは来なくなるだろうし、また、皆が「折角高い代金を払ったのだから」と作品により高い期待を込める。そのハードルの高さをヒカルはどう捉えるか。

打ち込めば打ち込むほど、力が抜けて受け手には気軽に手にとって欲しいと作り手は思うものだ。尾田栄一郎が「漫画は暇つぶし。娯楽と思って作っているからメッセージとかない」みたいな事を言っていたらしいが、あれだけ全身全霊を賭けて書いている作品に対してこう言えるのは、何かを成し遂げるのが目標なのではなく、彼自身が書いていて作品を既に今の時点で面白がっているからである。ヒカルにもそういう面があるから、丹精込めて作った作品も、気軽に手軽に接してみて貰いたいと思っているには違いない。

ああ話がまとまらなかった。以後次回。