無意識日記々

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何度でも小津話。尺が足りない。

未見だった小津の「長屋紳士録」を観る。1947年と戦後すぐの作品だし金も人も時間もモノも何もかもない状況で作ったんだろうなぁという感じで最初はさほど期待せずに観始めたのだが、終わる頃には「小津……恐ろしい子!」と呟かざるを得なかった。いやはや、天才はどんな状況でも作品を仕上げてくるものなのか。お金がないから人が足りないから時間がとれないからといい作品を作れない言い訳をする人たちは、いやそれで普通なんだけどね。

そこでふと松本人志の事を思い出す。何故彼のMHKは成功しなかったのだろう?と。思うに、視聴率を気にしすぎたのではないか。あの作風で数字が取れる訳がないのだが、やはりずっとテレビの中で暮らしているとそう思えないのだろうか。彼の、今の、爆笑とは無縁の、内側からじわじわくすくすと込み上げてくる小さな笑いの作り方は私は好きだし、何よりそれは順当な"進化"だと思う。今の作風は文脈依存性がかなり低い。目の前で笑いが"生まれてゆく"過程をみせてくれる。このままいけば更に普遍性の高い笑いが生まれると思うのだが何とも勿体無い。

小津の場合特に初期の頃は喜劇がベースにあるのだが、驚いた事にこの100年とは言わないが大昔のギャグをみて今でも笑えるから凄い。こどもが変な顔をする、ただそれだけのことでも確かにこれはいつ誰がみても可笑しいだろうなぁと思う。どこまで意識的かはよくわからないが、彼は文脈依存性の極端に低い笑いを作り出す術に長けていた。松本人志はちょうど今、初期小津の地点に辿り着いているんだと思う。嘗て一世を風靡した、日本語すらも変えた男が30年近く費やして至った境地が初期小津だとしたら…私の勝手な感想ではあるが、いやはや日本には昔とんでもない人が生きていたのだなと。なので松本人志もここから更に四半世紀位を費やして映画を作り続ければかなりの傑作を…何歳なんだって話ですが。

宇多田ヒカルも"スタート地点が既に非常に高い"所から始めている。が、まだまだこれから成長するべき余地、開拓すべき境地が控えていると思う。最初から老成しているような印象を与えた彼女だが、30歳から次の30年、長いようだが多分あっという間だ。残念ながら邦楽にはお手本となる存在が居ない。美空ひばりでも物足りない。唯一、その出発を参考にできた人が居るが、それが実母というのは何という運命の悪戯か。そして、年齢的にはいよいよ彼女の人生をアテにできない時期にさしかかる。いや最初っからアテになんかしてないだろうけどしかしそれでも前人未踏の地に足を踏み入れる気分は如何程のものか。海外になら参考に出来そうな人も居るだろうし小津のように他ジャンルの人を見遣るのもいいだろう。でもまぁしかし、あんまり他人の生き方を省みようなんて風には考えないかな光は。読書好きというのは、ひとの人生を常に覗いているようなものだからそれは違うのかな。いずれにせよ、迷った時にとっかかりになる他人の人生というのも、有
用なものだと思うよ。