無意識日記々

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「破壊」と「分解・再構築」


前回チラッと触れたAppleの動画、賛否両論らしいが、こちらは依然まだ観てないので何とも言えない。ただ、多分だけど、モノを「破壊」せずに「分解」して、それらを総て再統合したら新iPadになりました、という映像なら日本語圏でもウケがよかった気がするな。


この「破壊」と「分解」の違いを踏まえずに論じるケースの何と多いことか。破壊は、残ったものはゴミで用がないけれど、分解は、残ったものにこそ用がある。つまり、破壊と分解の違いは壊し方というより、残ったモノへの対し方の違いになる。


ここらへん、宇多田ヒカルでさえ区別が危うかった時期があったのよね。


『かあさんどうして

 育てたものまで

 自分で壊さなきゃならない

 日がくるの?』


2005年発表の『Be My Last』の冒頭だ。「春の雪」の小説や映画に触れた人は清顕の言葉だろうなと解釈するだろうが(私もする)、当時のヒカルのインタビューから察するにこれはヒカルのその頃の気持ちも如実に反映していたのだろうなと思う。


確かに、今や商売敵となった(?)伊藤園に投稿した一句「ゆきだるま いっしょにつくろう とけるけど」に代表される圧倒的な無常感もそこにはあるが、もっと切実な破壊衝動のようなものがそこには感じられた。そこからの再構築に焦点があるというより、まずこれを壊したい、という生々しい衝動が。


『SCIENCE FICTION』には、この『Be My Last』を起点とした三部作(あと『Passion』と『Keep Tryin'』)は収録されていない。それは恐らく、この頃のその生々しい破壊衝動が今のヒカルの気分と余り合わないからではないか。


『2024 Mix』の数々のトラックは、リミックスという作業が、「破壊」ではない、「分解」と「再構築」である事を如実に物語ってくれている。ひとつの完成品を2つ以上にバラすという点では「破壊」も「分解」も同じなんだけど、バラされたものから新しいものをまた作り出す所が違う。そのやり方によっては全く予想もつかない成果を生む事もあるのだ。


新バージョンの制作は、ややもすると旧バージョンの否定に繋がる印象を持つ人も在るかもわからないが、そこは認識の解像度を上げて貰って、これは単なる「破壊」ではなく「分解」と「再構築」なのだと思ってもらえれば、心のささくれが少しは和らぎはしないかなぁ。



なお、「分解」というと「完成した機械を一つ一つの部品に分けること」を想像した人も多いかもしれないが、それに加えて、「生物の死体を土に還す為に微生物がすること」もまた「分解」だという点も強調きておきたい。その土がまた次世代の生物を育む。元々とても偉大なサイクルなんだよね。それを歌ったのが『Deep River』で…とか話を続けると際限がないので今回はこの辺で。