無意識日記々

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オリジナルの音が鳴る、音に成る

オリジナリティの話はあの調子じゃ長くなるからバサッと端折ろう。端的にいえば、"辿れる"とは、過去に向けての探求もそうだが未来に向けても同様に適用できるという事だ。つまり、今居る場所から次にどこかに行けるという事だ。

ここを整理しておかないとなかなか難しい。クリエイティブというと、常に何か"新しい"ものを送り出すイメージが強い一方、オリジナルといった場合は確立したスタイルを押し進めるような感じが強い。個性と言い換えてもいい。となると、クリエイティブである事とオリジナルである事はなかなかに相容れない、となりがちである。

オリジナルを"過去だけでなく未来へも辿れる人"だと解釈すると、クリエイティブとオリジナルはほぼ同義になる。要は"今ココ"から物事を前に押し進める力があるかどうかだ。この時参照されるのは辿ってきた過去であり、そこから"前に"進むとは辿ってきた過去のいずれの地点とも異なる必要があって…


…端折っても長いな。打ち切ろう。

ヒカルの難しいのはそこである。素性がわかりにくいのだ。初期の歌のスタイルは結構わかりやすかった。あぁ今のトーンはアリーヤっぽいね、その節回しはメアリーJだな、とかいうとっかかりからヒカルの個性を推し量る事が出来た。そういった影響源と比較して、そのスタイルを日本語の歌に持ち込んだ所が新しかった。何もない所から生まれたのではなく、あれやこれやのルーツが合流して前に進んだ感じはあった。この感触が私のいうオリジナルである。

それはまだいい。しかし、そこから後作曲家としての能力を発揮していくにつれ、その"オリジナリティ"はどんどん人を惑わすようになった。普通、我が道を行くタイプの人はそこに独自の世界を持っていて、そこに足を踏み入れるかどうかで大分違うのだが、ヒカルの場合Popsとして成立する事が念頭にある為どこまでも開いた感覚が残る。と同時に孤独感や疎外感を歌う歌詞を書いたりもする。

Popsのサウンドにオリジナリティは不要だ。というか、Popsというのは様々なオリジナルのサウンドの根を辿る事をせず、出来上がった表層だけを引用する為、出来たサウンドから"前に"進む事が出来ない。実をもいで食べても次の種を蒔く事が出来ないのだ。そこに種がある事も、それが次の実を結ぶ源になる事も知らないから。だからPopsはそこから未来へ辿れないという意味でオリジナルになりにくい。

ヒカルの場合は何なのだろう。表層だけみれば、節操なく様々なサウンドに手を出しているようにみえる。毎度言うように、SCv2はフォーク、ハードロック、ダンスポップ、シャンソン&ジャズ、ピアノバラードとジャンル分けするならバラバラだ。こうやって文章で紹介すれば、オリジナルでない日本のPopsらしい音となるのだが、幾ら何でもこの音をオリジナルと呼ばないのは違う気がする。創造性と独自性があり質が高い。何の文句もつけようもない。しかしでは、これが"辿れる"音かというと難しい。前にも述べたようにヒカルの音楽に時系列をつけるのは音楽性の変遷ではなく質の上昇だからだ…

…隘路に陥ったまま、次回に持ち越し。やれやれ。