無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

感覚

歌は世につれとはいうけれど、今のご時世"流行歌"の存在が希薄だ。都会人に限った事かもしれないが、今や時代性と音楽というのなら「誰々をいついつにどこどこで観た」というようなLIVE体験に求める事が多くなっているかもしれない。「2010年12月9日に宇多田ヒカルを横浜で観た」みたいなね。それってどうなんだろう。

思い出と歌はよくリンクしている。昔の歌を今聴くと即座に当時の事が頭に浮かんでくる。そういう体験が希薄になっていったとすれば。味気ない、だけで済めばいいのだが。

別に個々人がそれぞれの音楽を聴いていればよい、というのならそれでもよい。いや本来そうあるべきなのかもしれない。流行っているから、という圧力で歌を確認しなければいけない作業から、今の若い子たちは多少なりとも解放されているのだろうか。いや多分、歌がそういう風に追い掛けられなくなっていたとしても何か他の流行は追い掛けているのだろうな。歌がその座から追い落とされているのだとすれば、確かに切ない。

思い出とリンクする訳でもなく、忘れ去られるのでもなく、ただただ遠くの方を通り過ぎていってるだけ…もしかしたら、多くの人たちがそんな風に感じているのかもしれない。流行歌の喪失とはそういう事だ。

ならばその喪失感を音楽に封じ込めるのが音楽家たちの役割…のような気がするが、なんだかこの20年、新しいメロディーというのにお目にかかってないような。何か新しいソングライティングを見せてくれないのだろうか。私が気付いてないだけなのか。

時代が移り変わり、我々の身体感覚は、特にインターネットを利用する事で大きく変わった。"こういう風に"指先の紡ぐ戯言が衆目に晒される。指に目が刺さるようなこんな感覚、小さい頃は考えもしなかった。こういう新しい感覚たちを捉えて歌にしてる人たちって、居る?

ヒカルが図抜けて凄かったのは、デビュー曲にして更にその感覚の先を歌ってみせた事だ。皆さんご存知ですわね。

『It's Automatic
 アクセスしてみると 映るComputer Screenの中
 チカチカしてる文字 手をあててみると
 I feel so warm...』

古典的な情感と新世代の感覚が見事に融合している…って当時散々言われてた事なのであまり繰り返す気にもならないが、手に触れた暖かみが虚構だという現実と、受話器の向こうの声、さわる指輪…あらゆる距離感がこの歌の中には込められている。確かに、これは全世代から共感を呼べ得る歌であった。

今のヒカルに、ここまでの事が出来るだろうか。枷があるとするなら積み上げてきた歴史である。GBHPVの感動は不公平だ。12年を知る者と知らない者の間で感動が違う。だからこそ連れていってくれるレベルというのもあるのだが、Pop Singerであり続けようとするなら、ここらへんで一回リセットしてみるのもいいかもしれない。ぁ、もうしてた。人間活動真っ最中ですね。いつも君は先回り。