無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

emulate h(e/k)r strangely

最近日記でヒカルの話をしてない(時々漏れてるけど)のには明確な理由がある。私今完全に「『Message from Hikki』欠乏症候群」なのだ。毎朝昔のメッセを読み返していると「この人はこういう出来事をこんな風に捉えるのだなぁ」というのが次々と流れ込んできて、「今の(34歳の)ヒカルはどういう考え方をするんだろう?」という疑問が浮かんでくる。いや昨年沢山(でもないか)インタビューに触れて、創作に対する感覚やスタンスはある程度頭に入っているのだが、ほんのちょっとした事についてどんな風に感じているのか、や、世の中の出来事について何か言いたい事はないのか、とかそんな風な発言はめっきり減ったように思える。

そういうのが無い分、自分で「オピニオンめいた日記」を暫く書いてみたのだが…似合わねー(笑)。やっぱあんま得意じゃないみたい、この人。そういうのは。

でも、確かに、時代が違う。スマートフォン世代は絶対数が多い。即ち、発言者の発言内容の平均は確実に質が落ちる。従って炎上が増える。書いてある事をまともに読み取る人が相対的に減るからだ。誤解に基づいた炎上を防ぐのは極めて難しい。何しろ、何を書いても効果がないのだから。

だから、今の、たまに思い出したように出てきて一言呟いてまた居なくなるスタイルは、ちゃんと時代に合っている。インスタグラムの拾ってみたシリーズも、炎上からはもっとも遠いアイデアだ。本当にうまくやっていると思う。今昔のメッセのような生々しいオピニオンを書いたら炎上必至だ。いや当時ですら、随分と抑制的な書き方で、誰よりも巧く書き、多くの尊敬を集めていた。より経験を積んで物事の見極めも正確になった今、昔のような手法を選択しないのは、やはり極めて正しい。

しかし、メッセ欠乏症は、なんというかこれはこれで仕方ないのだ。宇多田ヒカルという人をずっと追い掛けているコアなファンというのは、その音楽性のファンではない。ただ人として好きなのだ。あれだけ毎曲々々音楽性の変わるミュージシャンを好きで居続けるのは至難の業だ。自分のように好きが高じすぎてヒカルがその時々に聴いている音楽をチェックしながら消化・吸収してきた人間なら、どの作品もそのまま愛せるようになるのだが、それもこれも、「この人を追い掛けたい」と最初の最初に思ったからだ。つまり、メッセ欠乏症とは、「今のヒカルが見えない」というシンプルな"叫び"なのである。

なので、今は逆から攻めている。今日こんなニュースを聞いて、自分はこう思った、ヒカルはどう思っているだろう?という順番だ。ただおろおろうろうろしているだけでは、ヒカルの思考や感性をトレースできない。自分が『Kuma Power Hour』を繰り返し聴く事で"ヒカルの最近の音楽的な趣味の傾向"を自分の感覚と融合させながら身に付けていけたので『Fantome』での音楽的な変化にも抵抗が無かったのと同じように、まず自分の感性や考え方と向き合う事で今生きている「宇多田ヒカルという人」の思想信条をトレースする下地になる力をつけておきたい、とそう考えている。灯台のように光を発する事は出来ないまでも、灯台がどこに向かってどれ位の光を出しているかを的確に読み取れるようにしておきたい、っていう比喩で通じる?(笑)

本当はもっと色々思った事を素直に発言して欲しい、という本音と、いやいや、炎上して活動に支障が出てはどうしようもないから不用意な発言は避けて音楽に集中しようよ、という建て前が自分の中に同格として存在している。生きていく上では本音と建て前の間に価値の貴賤は無い。どちらももっともだからだ。そしてそれこそが本当の価値観である。あとは、何がやりたいかという話にしかならない。特に何も、というのなら、思った事をそのまま書けばいい。何がどうなるか見てみよう。ここは「迷子になろう」とエミリーみたいに言えばいいのかな。