先日リリースされた平原綾香のカバーアルバム、何十年と歌い継がれてくた名だたるスタンダード・ナンバーたちに並んで、ファレル・ウィリアムズの"Happy"が収録されている。まだ去年の曲である。
しかし、誰が選んだか知らないが、この選曲は慧眼といわざるを得ない。"Happy"は、別に誰もが認める感動的なナンバー、という性質のものではないが、日本語でいうところの"流行歌"そのものの曲だ。何よりも"今"という感触がそこには封じ込められていた。実際にヒットしたという事実が、この曲をのちのちスタンダードナンバーに押し上げていくだろう。後生の人は後追いで聴いて、「これが10週連続No.1なの?」と訝るかもしれないが、この曲が2013〜2014年にヒットしたものだと知れば、「確かに、あの時代の匂いがするかもしれない。」と人は言うのではないか。その意味において"Happy"は既にスタンダードナンバーであり、定番曲だらけのカバーアルバムに収録するのは正解といえる。
既に2,3度書いたことだが、"Happy"が羨ましい。ファレルの事はHikaruも知らない仲ではないのだろうからもしかして何らかのコミュニケーションがあったのかもしれないが、まずひとつ、こういう時代の空気を読み取った曲を書ける事が羨ましく、そしてもうひとつ、それが実際にヒットしてしまうのが羨ましい。総括すれば、歌と時代の空気が繋がっている事が羨ましい。
Pop Musicとは他者の音楽だ、と渋谷陽一は言ったが(この引用何度目だ俺)、その開かれた感覚は何をするものかといえば、人に歌を聴く習慣や、口遊む癖を植え付ける事だ。既に音楽を聴く習慣とシステムが生活の中に組み込まれている人にとって、Pop Musicは言わば物足りない。そこから、細分化された特定のジャンルへと分け合っていく。そうなると音楽ファンである。
文化や娯楽、といった広い視野で音楽を位置付けると、日本では他のものに完全に負けている。ゲームやアニメや漫画や映画やドラマやなんやかんや…なんでもいいのだが、そういう"暇つぶし"の数々の中での存在感が薄くなっている。
おまけとしては好調である。アイドルソングやアニメソングといったジャンルは、アイドルやアニメを引き立てる為に歌を利用している。問題なのは、そっちばかり充実していて、肝心のPop Musicの空洞化が止まらない事だ。
この現況において、今年の宇多田チームによるリリースの数々は、様々な角度からみて"実験"と呼べる様相を呈してきている。いわば、ここから、Hikaru本人が不在のまま宇多田ヒカルという看板をどこらへんに置いて商売を続けていくのかという問題設定が積み上げられてきているのだ。どのコンテンツがどれくらい売れるか。どの企画が受けるか。それによって、今後の"ヒカルの身の振り方"が決まっていく。ちょっと大袈裟に表現すればそうなる。
ヒカルには、自他共に、Pop Musicianとしての爆発力が期待されている。老若男女が皆知っている歌を歌う女の子。そのポジションに今居る子は他に居るのか。居ないよねぇ。
どこから穿てばいいのだろう。なぜ、世界の中で日本だけ極端にPop Musicが廃れたのか。難しい問題だが、HikaruにはUtada Hikaruとして、もう一度"Pop Musicという文化"そのものを日本に輸入してくれないかな、と思う。カラクリはこうだ。Utada Hikaruが、世界で、それこそテイラー・スウィフトのようなヒットソングを飛ばす。その熱気をそのまま日本に運んできてくれればよい。早い話が黒船だが、乗っているのは日本人の女の子だ。
はっきり言って、レディー・ガガでも誰でもいいけれど、この国の人間は、幾ら世界的なヒットソングがあってもガイジンが英語で歌っているものには興味を示さない。ならば、日本人が歌っていればどうなんだ、と思う。そんな事が出来るのはHikaruしか居ない。幾ら売れてもDir en greyやBabymetalには無理な話だ。彼らのやっている事はPopsではないのだから。
内側から流行歌を生む力が無くなっているのなら、そうやって擬似的にでも外側からカンフル剤を打つ、いやさ蘇生術を行うくらいしかやることがないのではないか。どうしてもそこまで考えてしまう。
だが、上記のように、現実には、宇多田ヒカルというコンテンツは高めの年齢層に対して高額商品を売る方向性を模索している最中だ。他者の音楽とは真逆の方向性である。この流れが、アーティスト活動休止期間ならではのものであることを願いたい…いや、どっちでもいいかな。(どないやねん) まずはヒカルの気持ち次第。それを無視して書いてみた珍しいエントリーでした。