無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

なんでもJをつけてましたねあの頃は。

何故ミサンガが25年振りかというと、つまりヒカルはその頃日本に住んでいたという事だ。27年前の1993年Jリーグが開幕した事で日本では空前のサッカーブームが巻き起こっていた。25年前の1995年といえばまさにその余韻冷めやらぬというタイミング。ヒカルは飛び級していたり9月入学・進級だったりしてその時々の学校や学年がわかりにくいが、ちょうど中学生くらいの時期だった思われる。

小学1年から5年までニューヨークで過ごしそのあとたった1年で6年分の日本の漢字を習得した、と語っていたかヒカルさん。日本の漫画を沢山読みながら日本の習慣や文化を沢山吸収していたのがこの小学校高学年から中学入学の頃だったのではないかと。ミサンガの編み方を知っているのも、その頃周りで流行っていたものを積極的に取り込んでいった結果なのだろう。

誰しもそういう時期はあるもので、と言ってしまえばそれまでなのだが、ここでやや不思議なのが、ヒカルがその1990年代中期の日本の商業音楽即ちJ-popについて余り語らない事だろう。

Jリーグが流行り始めたのとJpopが流行り始めたのは物凄く大雑把にいって大体同じ時期だ。ヒカルが周りに触発されてミサンガを編んでいるのなら、その時流行っていた歌も積極的にチェックしていておかしくはない。今と違って当時のJpopの売上、市場規模は鰻登りで、毎週のようにリリースされる新曲のチェックに忙しかったのだ中高生は。ヒカルは、そうではなかった。

もうきっと単純に、最初っから「私の方が優れている」と思っていたのかもしれない。10〜12歳なら曲作りを始めているしね。恐らく、サッカー経由での流行りにのるのはある意味それがどうでもよかったからで、音楽となるとそうはいかなかったのかもしれない。ここでもまた小津安二郎の名言、「なんでもないこと は流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う。」が思い出される。若いどころか幼い頃からヒカルパイセンは、巨匠のようなバランス感覚を身に付けていたのだろうね。