『Message from Hikki』開通20周年記念日。今は蔵に仕舞われているようなもんだが、これがなかったらこの無意識日記も存在していなかった訳で、自分にとっては親の誕生日のような建国記念日のような元日のような…兎も角、大事な日というか大事なスタートの日なのだという認識だ。リアルタイムで見てた訳じゃないから実感は薄いのだけど、親の誕生日や結婚記念日だって自分はリアルタイムで目撃してた訳じゃないんだからその記念日を祝う事に関しては何の抵抗もない。
そんな風だから昔のメッセを読み返していると親のこどものころのアルバムを見させてもらってるような感覚と、親戚のお嬢ちゃん(従妹とか姪とかだな)が育っていくのを眺めるような感覚と、なんだか両方あるような不思議な感覚に囚われる。これは、ブロガーとしてずっとやってきている人間ならではの不思議だろうかな。
今はメッセも見る影がない。が、こうやってツイートがバズったりしている訳でキッチリヒカルからの発信自体は続いている。誰だ「Twitterって期間限定だったんじゃないんですか?」とか余計な事を言うヤツは?(私ですね) せっかくこうやって無期限に続いているのだから是非ヒカルにはそんな初期設定は忘れっぱなしでいて貰いたい。
それに。もう一つ、メッセが無くても大丈夫なのかもねと思わせる安心材料がある。復活してから十代のファンが増えているのだが、何故か彼女ら彼らも、我々と同じ感じでヒカルの事が好きなのだ。正直、音楽性は9年前以前とかなり違っていて、『Fantome』から『初恋』で歌を聴いてファンになる人は昔ヒカルの歌に接してファンになった人たちとは音楽の趣味が大分違うんじゃないかというおそれまであった、筈、なのに、一言で言えば最近ファンになってくれた十代の若い人たちも我々古参と実によく似た「ノリ」でヒカルへの愛を叫んでいる。それが不思議でねぇ。
昔はね、歌は兎も角メッセを読んでファンになるとかザラにあったのよ。で、そういう人たちってのはヒカルの物事の考え方や感じ方に共鳴している訳で、そういった「メッセから入るファン」同士が同じノリになるというのはそれはわかりやすいというか必然であったとは言えたのだ。
しかし今のファンはヒカルの考え方や感じ方をそれなりに長い文章で披露して貰う機会も少ない訳で、なのにきっとこの人たちもうちらと似たような感じ方や考え方に共感するんだろうなというのがかなり強く伝わってくる、のだ。勘違いなのかもしれないが、昔オフ会に初めて行った時から感じ続けている「取り繕わなくても構わない」あの感覚が今でも健在なんですよ。昔から知る者同士にも相変わらず変化は少ないし、新しく知り合う人たちに対しても取り繕わなくていい。一言、居心地がいいままなんです。
なぜ君らはメッセもなしにヒカルの人間性を知れるのか。やっぱり不思議で仕方がないが、これは望ましい事なので余り深く考えずに、今の時間を相変わらず楽しむようにしようかな。“ここ”から離れない限り、これは、きっと変わらないのだろう。そう願うと願わずとにかかわらず。うん、いいことだ。