無意識日記々

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「何もしないで」

EVA:Qで一番鮮烈だった一言はこれだ。「何もしないで」。あれだけEVAに乗れ乗れ言ってた人達が見事に掌を返した様は観客がシンジ君に同情するに余りある程効果的だった。極論すればこれが:Qのテーマだったと言っていいのかもしれない。

ただ、私が劇場でこの台詞を初めて耳にした時に頭に浮かんだのは、やはりというべきか呆れるべきというべきか、ヒカルの事だった。ヒカルが人間活動に入っている時期…いや、光が人間活動をしている時期というのはヒカルは開店休業中であり、ヒカルとしてはいわば「何もしていない」状態である訳だ。そういう人間がこのEVA:Qの主題歌を歌うだなんて、これ以上相応しい人選はないな…それが最初の感想だった。

思えばヒカルが、特にシンジに同調するのは、何度も述べてきているようにセカイ系の主役として自分の小さな振る舞いが世の中に大きな影響を与えられる立場に、望むと望まざるとに関わらず立たされてしまった苦悩が一致するからだ。後に二人ともこの「運命と和解」して"EVAに乗る"事を受け入れていくのだが、:Qはこの運命との和解を真っ向から否定する。せっかくやる気出してるのに、という気分。

勿論決定的な違いが明確にあって、それは、シンジが乗れ乗れ乗るなと周りから言われ続けているのに対して、ヒカルは自らの意志で人間活動に入った事だ。この違いこそ本質的だなぁと思う一方で、もしかしたら、ヒカルは周りからそれを言われ始める前に誰よりも早く「ヒカルとしては何もしない時間」をとるべきだと思ったのかもしれない。

ここら辺が、難しい。宇多田光という人の価値判断には自己と他者の境界線がない。自分が聴きたい音楽を作るのと、人が聴きたがる音楽を作るのに差がないのである。前者を作れば自らが誇らしいし、後者を作れば皆が喜んでいるのを知りよしとする。そういう人間にとって、1人の人間として人間活動に入るという"決断"は、自分が疲れ切っていたから、というだけでなく、世界中の"宇多田ヒカルという概念"にお休みを与える必要性や義務感をどこかで感じ取ったからかもしれない。いわば、運命から「何もしないで」と宣告されたようなものなのかもしれない。逆に、そういうものである方が"決断"がし易いという側面もあろうか…EVA:Qを見ながらそんな事を考えていたら、シンジレイアスカの3人が歩き出す所でアニメが終わり桜流しが流れ出した。私たちの続きの足跡。そうか、やっぱりこの曲は「何もしない」時期だからこそ作れた曲なのだ、人間活動の賜物なのだと思うに至った。

人間活動を通して得た経験が楽曲と歌詞により深みを与え…という定型的な解説をする事も可能だが、よりシンプルに、「何もしていない人("宇多田ヒカル")が書いた曲」というのがEVA:Qに必要な楽曲だった、とそう思えばあらゆる運命の輪がカッチリと嵌る気がする。この時期に休み且つこの時期に作る歌。長い音楽家生活の中でも2度とないかもしれないタイミングで唯一無二の楽曲桜流しを作り上げたヒカル。再三再四言うようだが、脚本を読まず五里霧中にあってもEVAの本質を見抜いていただけではなく、作品の推移と人生がシンクロしてしまうなんて尋常じゃない。この歌は生まれるべくして生まれたんだ…それが私が最初にEVA:Qを観た時の感想だった。とすれば次作EVA:||の主題歌はどうなるのだろう?…そう思いながら観た次回予告は「安心しろ」と言ってくれているように思えた次もヒカルは絶対ハズさないだろう。今度こそそれが宇多田ヒカルの復帰の瞬間かもしれない。さぁて、どうなりますことやら、ら?