無意識日記々

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エヴァンゲリオ…

以前述べたように、エヴァンゲリオンとはギミックである。ヒカル曰く「出汁」と呼ぶ普遍的なテーマを扱っているだけあって、それをそのまま何の捻りもなく表現してしまっては夕方6時台の少年向けアニメの枠組みには入らない。そこで、その枠組みに入れるべくエヴァンゲリオンは作られた、と私は解釈している。それも事後解釈に過ぎず、監督にそこまで明確な意図があったかは怪しい。何であれ面白いものを作ろうともがいていたらこうなった、というのが正直な所だろうか。

その「出汁」の部分というのは、ヒカルがそのまま指摘しているように親子関係や孤独感や成長や何やかんやといったものであって、それをそのまま表現すればホームドラマだとか学園ものになるだろう。実際、"学園もの"のパロディまでテレビシリーズ本編及びコミカライズでやってしまったが。

碇司令は息子に対して「EVAに乗れ」と言う。これはテレビシリーズからQに至るまで変わらない。EVAをギミックとしてみるなら、これは何かといえば父親が息子に命令/指示/期待etc.する事全般を抽象化したものだという事だ。別にこれは「勉強しろ」とか「働け」でも構わない。何でもいいのであるが、より普遍的な構造を抽出する為、つまり、視聴者にとって誰にも直接あてはまらず、且つ切実に感情移入できるものとして「世界の命運を左右するロボットに乗る」というお題目を持ってきた(正確にはロボットじゃないが)。視聴者の誰も世界全部に影響力をもつ訳ではなく、且つ、世界全体が壊滅するというならば全員が危機感を抱く。アニメのテーマが「地球の平和を守る為」に収束するのは、その個々に対する当事者性のなさと全体としての当事者性という一見相反しそうな条件を揃えられる舞台設定だからだ。その新世代版がEVAであり後のセカイ系の諸作品である。


と、ここまでは普通に言われている事だ。しかし宇多田ヒカルにとってのエヴァンゲリオンは、以前述べた通りその点において様相が異なる。宇多田ヒカルは、15〜16歳にして世界全体、とは言わないまでも日本中に影響力をもつ存在となった。他社の工場まで間借りしての生産体制を敷かれ、日本各地でFirst LoveのCDが山積みになった。皆がこの「ミステリアスなヒカル」に注目し一挙手一投足に反応した。まさに宇多田ヒカルは「リアルセカイ系」の体現者であった。

つまり彼女は、エヴァンゲリオンを「個々の当事者性のなさの象徴」とは受け取れなかった筈だ。勿論あんなデカいロボットに実際に乗るわけではないが、その才能と知名度によって一億規模の国の何十%かの人間に一瞬にして影響を行使できるという意味においてエヴァンゲリオンはヒカルにとって「切実な現実の象徴」たりえたのである。そんな彼女だからこそ、例えばプログレッシブナイフを振り回す場面のシンジの慟哭に対して心から共感できたし、同時に監督がギミックとしてのエヴァンゲリオンを正確に表現できていた事も、ここから読み取る事が出来る。この2人の稀代のクリエイターは、互いの事を深く理解し合っていると言っていい。

そう考えた時、実はヒカルは新劇版EVAの細かいディテールにまで立ち入る必要はないのだという所に思いが至る。彼女はEVAが何であるかを知っているし、また、彼女自身がEVAを内面に宿している。そして、ここが本質的な所なのだが、父親が息子に対して何か命令や期待をする際の象徴として機能するEVAが母親であるという点が、このギミックの最大の仕掛けである訳だから、ヒカルは女性としてその本能的な母性と、幼少期の「男児化願望」を…


…ここから先は今の私には手に余るのでブツ切りする事にしよう。続編を近いうちに書く事はない。