無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

今の私

「習慣になる」というのはとても大きい。この間「テレビ番組を見る事はあってもテレビを見る事はなくなった」と呟いた。これはつまり、ある特定の番組を観てみたいと視聴したり録画したりという事はあっても、「特に観たいと思う番組はないけれど、とりあえずテレビをつけてみる」という習慣が私の中で失われた事を意味する。

逆に、「とりあえずニュースでもチェックするか」とネットを見る事は増えた。というかそちらが習慣になったと言っていい。取捨選択の容易さや時間あたりの情報量など、圧倒的にネットの方が勝っている。動画も音声もある訳だしそこまで高画質を求めていないのでそういう点においてテレビにあまり利はない。まぁもう今更な話だけれど。

宇多田ヒカルがテレビから消えてちょうど2年である。元々テレビに依存した活動スタイルではない故、それほど劇的な事ではないのだが、それでも日本でいちばん大きなメディアは地上波テレビである事に変わりはない。これはもう構造上の利点なので、とんでもない大スキャンダルでもない限りまだまだその地位は安泰だろう。そこから姿を消して2年、である。

とはいえ、テレビを見ていればポツポツとヒカルの名前はきかれているようである。こちらはその情報をネットを通じて知るのだが。今はノスタルジックな番組が増え、昔のヒット曲を題材にするケースが多く、必然的にヒカルの名前も頻出する事になる。これは案外大きい。

本人不在。その上で語られる。また雰囲気だけが独立しているようにもみえる。テレビを観る習慣のある人たちには、雰囲気として宇多田ヒカルという名前は片隅にあるのだ。あとは、たまにするツイートとそれに伴うWebニュースでどれ位の層が"今の実像"に寄ってくれるかである。しかし、どれだけ多く見積もっても視聴率換算で1%といった所か。2年前の番組は5%余りだったと記憶している。まだまだ遠く及ばない。

とはいえ、それは必要な事なのだろうか? 今テレビを見ている層にアピールする事が「割に合う」かどうか。今、というのは気が早いな。ヒカルが帰ってきた時、テレビの役割ってどうなっているのだろう。今回の桜流しも、動画を公開し音源を配信し映画館で堪能させる、という流れで完結している。テレビがなくても成立しているのである。かつて、FINAL DISTANCEでヒカルはテレビを排したプロモーションを行った。travelingもテレビで歌わなかった。いやTVCMは強烈だったけれども。それらを踏まえると、これも今更かもしれない。

NHKは、復帰時にまた特別番組を組んでくれるのだろうか。あったとして、それはどれ位の視聴率をとるだろう。そして、それに私は、私たちはどれ位の関心を払うだろう。あんまりわからない、というか、あんまり興味がわいてこない。これが、心が離れるという事かもしれない。

Webがあって、本当によかった。