無意識日記々

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夢幻の入れ子構造

音楽について話す時、貴方は曲の事を話すだろうか、それともアーティストの事を話すだろうか。「宇多田っていいよね」と言うのか、「あの、ほら、長澤まさみが出てたドラマの曲いいよね」と言うのか。人によるし、場合によるだろう。

何故ひとはこうやってボカして話をするのか。小さい頃から不思議だったし、自分もそういう話し方をする大人になった今でも不思議だ。First Loveのサビメロをちらっと覚えてるだけで「宇多田っていいよね」まで来る。いや別に構わないんだが「First Loveのサビが好き」で何が不都合なのか。特にない。

人の話し方はここからどんどん飛躍していく。「J-popのバラードが好き」から「J-popが好き」「邦楽ファン」、そして趣味は「音楽鑑賞」。まだまだいくぞ。「最近の若いもんは」「男ってさぁ」「女って奴ぁ…」「人間って」「生きる」とは…ほんの数えられる程度のサンプルで限りなく対象を広げていく。何億、何十億、そして最後の「生きる」に至っては微生物も含めたら何兆の世界だろう。どこまでもどこまでも話が広がる。まぁそれはそれで楽しいのでいい。

いいのだが、この"暴走"の原因は何かといえば、特定の対象(今の例でいえばひとつの楽曲)から何か法則性なり普遍性なり共通点なりを抽出して語るからだ。流石にひとつのサンプルから、となると躊躇う人も多いが、アルバムを買って冒頭3曲くらい自分の琴線に触れる楽曲が続けば大抵「Prisoner Of LoveとStay GoldとHeart Stationが好き」とは言わずに「俺宇多田好きかも」になってくる。要は、難しい話をしているが、会話の尺の問題なのだ。3曲以上曲名を並べる位ならアルバム名かアーティスト名を口にした方が尺が短くて済むし、相手の知りたい事だって大抵個々の曲の是々非々ではなく、そういう大まかな事なのだ。なのだ。


しかし、だ。Utada Hikaruという人はファンクラブを作らない。未だに、だ。そろそろベテランになってきたらファンクラブで会費をぶんどってディナーショウで荒稼ぎしてもよいものだが(流石にまだちょっと早いか)そんな様子は微塵もない。一曲々々で勝負。そのプレッシャーが欲しいのだろうし、また、それが気楽だという面もあるのだろう。そういう面では、Hikaruについては出来るだけ『曲単位』で語るべきなのかもしれない。

ただ、当人は、セルフ・プロデュース歴も10年前後となり、自分自身を客観的に眺める術にはますます磨きが掛かっている。3年前のGoodbye Happiness PVが端的な例で、あれは自分自身がファンからどう見られているかを的確に把握していないととても怖くて携われる企画ではない。そういう意味ではひとつの楽曲を超えた「宇多田ヒカル像」みたいなもんをひとつの楽曲の映像作品に封じ込めた訳で、何といえばいいのだろう、あのPVに関しては、あれ1作品を観て「宇多田ヒカルが好き」と言い切ってしまってもいいようになっている。そこが凄い。そして、そういう作品はあの時のタイミングでないと出来なかったともいえる。考えれば考える程不可思議である。どうなっているんだろう。

世間の求める宇多田ヒカル像、ファンの求める宇多田ヒカル像、色んな虚像を相手にしながら、常に新しい楽曲で勝負してきた人。桜流しだっていちいちセンセーショナルだった。あの歌では、何しろ、近影ひとつない。貞本絵一枚っきりである。"宇多田ヒカル"を宇多田光の手によって一曲の映像で表現したGBHPVから、極力宇多田ヒカルの名も顔も前面に出さなかった桜流しへと遷移したのである。奇妙な話だが、アーティスト活動をやるやらないという大枠の変化すら、創作活動の中に封じ込めてしまっている。ありきたり過ぎるシメ方でゴメンナサイ、Utada Hikaruは、根っからのクリエイターなのだ。多分、本人も気がつかないうちにいつの間にか復帰しちゃうんじゃないかな。いつになるかはわかんないけれど。