無意識日記々

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持ち上げれるだけ持ち上げてみる

桜流しを聴いていると、その余りの集中力に驚嘆する。ひとつひとつの音、ひとつひとつの言葉を如何に大切に扱っているか、"彼らと向き合って"いるか、"共に在る"か。そういった点においてヒカルは傑出しているし、もう2年も前のこの最新曲は今の所最も高い集中力が込められた作品のひとつといえるだろう。

この、"途轍もない楽曲の強さ"を、他のミュージシャンたちがヒカルのうたをカバーする事で学んではくれないだろうか、という淡い期待を抱いている。楽譜に起こす人耳コピする人波形を眺める人様々だろうが、ヒカルのうたと向き合った時に感じるあの圧倒的な美しさを、プロの一流のミュージシャンたちがどう受け止めるか。興味がある。

逆に落ち込む、という場合も多い。「こんなとんでもないもの、私に俺に書けるわけがない」と。彼我の差、どうしようもない才能を痛感し、自分は別の場所で生きるか、いやいやシンガーソングライターとして学べる所は学ぼうとするか。どちらに転ぶかはわからないが、いい刺激になっていてくれたらな、と思う。


もっと夢を広げて、この企画がミュージシャンたちの"機運"を変えてくれないかな、とも思う。昔に較べてサウンドのクォリティーは上がったし演奏技術も素晴らしい、ソウルやR&Bもそれっぽく歌えるようになった、しかし、新しい作曲家、メロディーメイカーが出て来ない。歌声に魅力はあるのに、その声に頼るだけでそこから独立したメロディーを書く事ができない、そういった風潮、いや、邦楽市場の退潮と言った方がいいか、その空気を変えるキッカケにならないかなと。

四年前から「J-popってもうないよね」と言ってる私だが、それが妥当かどうかは別にして、日本語圏のアーティストたちが「この言葉のもとでのPop Music」というものを掴みあぐねているように見えてならない。要は"流行り歌らしさ"というものが失われて久しい、と。

アメリカのPop Musicはそうなってはいない。この一年のヒット曲のひとつにファレル・ウィリアムズの"Happy"(幸せなら手を叩こう、ってヤツな)があるが、あの曲を聴いた瞬間に「あぁ、2014年のPopsだ」と思い知らされた。アメリカにはそういうちゃんとした流れ、"流行り歌らしさ"がきっちり息づいている。テイラー・スウィフトのように、悪魔に魂を売るノリでPop Musicを追求するアイコンも居る。セールスは落ちているかもしれないが、本場のあの国にはしっかりとPopsが生きている。

ヒカルが復活する時にPop Musicというものをどう捉えているかはわからない。私は4年前にGoodbye Happinessを「最後のJ-popソング」と書いた。80年代末にCDシングルが売れ始めた頃から言われるようになった"J-Pop"が確かに生きていた時代の最後の名曲。桜流しは素晴らしいが、Qのコンセプトに沿うようにそれはPopさとは異質な重厚感を基調とした、どちらかといえば"生まれながらにしてクラシックス"という楽曲だった。4年も経ってしまえば考え方も感じ方も変わってくるだろう。


ヒカルは、あぁ見えてちゃんとファンと対話している。例えばStay Goldを発表した時、10代に非常にウケがいいと嬉しそうに報告してくれたが、あれは、私の見立てによると、Flavor Of Lifeが超特大ヒットしたお陰で、というか花より男子2のお陰で、嵐なんかが好きな世代の子たちから沢山反響を得ていた事が曲作りに影響していたのではないか、そう踏んでいる。所謂時代の空気、というのとは違うかもしれないが、その時々のリスナーたちの空気や雰囲気は敏感に感じ取っている。


そこらへんの機微まで、宇多田ヒカルのうたに参加した皆さんが受け止めてくれて、それをそれぞれが持ち帰って自らの創作活動に反映させてくれて、市場の雰囲気まで変える事が出来たなら、今回のアルバムはなかなかに歴史的意義が深い作品になりえるのではないだろうか。以上、妄想でした。でも実際そうなってるといいなぁ。