無意識日記々

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「『まだなにもつたえてない』」

『まだなにもつたえてない
 まだなにもつたえてない』

この個所についてもう一度触れておこう。
シンコペーション気味に、という言い方はヒカルの歌唱法を取り上げる時にはおいそれとは使い難いが、取り敢えずこの節では地の文の強勢とメロディー自体の強拍が若干ズレている。

「まダなにモつタえテ・ナ・イ」

カタカナで表した個所が強拍になっている。一方、ひらがなは地の文でいえば強勢だ。「え」は中立的だが。兎も角、強勢と強拍は逆転気味だと言っていい。何故こうなっているかといえば、この2行が同じ文章でありながら異なるメロディーに乗っているからだ。

その強拍と強勢の分布の差異について今述べるのは持て余すので、その前段である、お馴染み母音の配置について先に述べておこう。

カタカナで記した場所を並べてみると「ダ・モ・テ・ナ・イ」と、悉く母音が異なっている。「ア・オ・エ・ア・イ」。被っているのは「ダ」と「ナ」の2つだけだ。今までみてきた通り、こうやって出来るだけ異なる母音を配する事でメロディーの抑揚を、音符の上下動を単調にならずに伝える効果がある。特に、この箇所は前段の「…しんじられない」から引き継いでいるのでこういった工夫が必要であるといえるかもしれない。

歌というのは、ひとつの歌の中でも場所々々によって、メロディーを伝えるか歌詞の内容を伝えるかの比重が変わる。それは意識的である場合もあれば、いつのまにかそういった結果になっている場合もあるし、また、やむにやまれずそうしなくてはいけなかったという場合もある。ヒカルもそれは様々であろうが、桜流しではそういった面がかなりハッキリと出ているようにも思えてくる。もう少し読み進めていけば、全体のバランスも把握できるようになるだろう。