無意識日記々

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みていたこだちのやるせなきかな

さてここまでくれば、この歌でいちばん特徴的なあの一節がなぜああなのかが理解できる。

『ひらいたばかりのはながちるのを
 みていたこだちのやるせなきかな』

突然「やるせなきかな」て! 聴いた誰しもそう思ったに違いない。しかしだからといって広がる情景が損なわれる事はない。寧ろ、描く風景のクライマックスとしての威厳すら感じさせる。音韻上はここはどうなっているか。

「みていた」が直前の「ひらいた」と韻を踏んでいるのは明らかだし、勿論いちばをの「みていたあなた」とね対比でもある訳だ。ここはいいだろう。次だ。「こだちの」。

語尾からみてみると、前段の同じ箇所は「ばかりの」であるから語尾の「の」を揃えてある。そしてその前、「こだち」の「だち」と「ばかり」の「かり」は母音にすると「あい」であり、これも揃えられている。実は、ここに至るまでこの冒頭のメロディーが"まるきり同じ形で"繰り返される事はなかった。ここで初めて畳み掛けるのである。即ち、音韻も最も「揃え甲斐のある」パートになっている。

「こだち」の子音も、カ行-ダ行-タ行、とこの曲で重点的に使用されているKとT&Dが用いられている。これによる楽曲の統一感の演出は見事という他はない。

そしてもう一度、この歌のテーマが「はなとあなた」であった事を思い出そう。これは、内容の話だけでなく音韻上も同様であった。この語感で楽曲全体を統一する。であるからこその「やるせなきかな」の「なきかな」なのである。ここのポイントは「なぜ語尾が古風な"なきかな"なのか?」という点な訳だが、それは、「はな/あなた/かな」と揃えてみれば明らかだろう。子音もやはり頻出するKとNが用いられていて、今までそういった"偏った"子音の使用頻度によって、この一言が出現する必然性を高めている。その為、唐突に耳に入ってきて吃驚するのに楽曲全体の雰囲気を損なう事はない。一定の音韻の反復によって、この場所に自然に嵌め込まれるように誂えられているからだ。だから「やるせない」や「やるせなし」ではなく「やるせなきかな」になったのである。