無意識日記々

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GentleBeastという相反する名前

ヒカルがコクトー・ツインズ好きというのは、音楽のジャンルというより音楽への感覚的アプローチに共通する部分があるからだろう。具体的にどの感覚が共通するか、というより音楽に対して「感覚的にアプローチする」という方法論を用いる事自体が似通っている、という意味だ。

一方で、ヒカルはザ・ブルーナイルも好んでいる。こちらも感覚が重要だが、ドモホルンリンクルのような(とヒカルが実際に言ったかどうか忘れてしまったが、こう表現するのに同意するであろう事は想像に難くない)音を一滴々々抽出するかの"真の洗練"の部分を持ち合わせている所が大きい。

"真の洗練"と書いたが、ここの所は案外軽視されているかもしれない。ヒカルがブルーナイルの名前をラジオで出した時、DJさんが"ラウンジミュージック"というワードを出してヒカルを戸惑わせていたが、ブルーナイルはそういった所謂"都会的洗練"と結び付けて語られる事がままある。有名曲の曲名が"ダウンタウン・ライツ"だったりする為のイメージであろうし、実際そういう風にみえる側面もあるから間違ってはいないのだが、ヒカルはそういう風にブルーナイルをみた事がなかったのだろう。だから戸惑った。

"真の洗練"とは、目指す表現において徹底的に無駄を削ぎ落とし本質の部分だけを剥き出しにしてしまう、いわばラジカルなアプローチの事を指す。一方、"都会的洗練"なんていう文脈で語られるものの中には、本質云々でなく単に"小綺麗"程度で済ませているものもある。そういう時、剥き出しとかラジカルとかいったキーワードは遠く離れた所に現れる。

ヒカルは、一方でジェフ・バックリーとか尾崎豊の名前も出す。こちらは洗練云々よりどうしようもない剥き出し感が前面に出ている。卒業とかI Love Youを歌う尾崎が"洗練されている"と表現される事はあんまりないだろう。どちからというと中二病とか、そういう方だ。しかし、ヒカルの中では尾崎もブルーナイルも、"本質を剥き出しにする"という音楽的アプローチを取っている点では同じである。違うのは器用か不器用かの違いだけだ。まぁドモホルンリンクルに8年かける奴の生き方も大概不器用なんだけれど。

コクトーツインズは、その"本質的な部分"を感覚そのものによって捉えようとしている所がヒカルと似ている。具体的には、Gentle Beast Interludeがそれだ。この曲の持つ"感覚"は、コクトーツインズのもつそれに酷似している。そして、Gentleと言った時の洗練された感覚と、Beastと言った時のゴツゴツした荒々しいラディカルさ。その融合がヒカルの音楽に対するアプローチの位置取りだといえる。ヒカルの好きなアーティストたちの音楽を、そんな風な視点で聞き直してみるのも一興かもしれない。