無意識日記々

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しかも爪は伸びるのだ。

楽家の能力の高低といっても、それは本質的な価値では無い。音楽が競技でない以上、最終的には聴衆1人々々の嗜好でひとつひとつの音楽の価値が規定されていくべきだ。

勿論、売上を語る事も出来ればコンクールの順位付けもあるし人気投票だってある。しかし、それはあクマで人々が音楽に出会う為の手段でしかない。今売れていると聞けば興味を持って耳を傾けてくれるかもしれないし、マリア・カラス・コンクールの最優秀賞だときけばちょっと足を運んでくれるかもしれない。NHKののど自慢だってやっぱりカネが沢山鳴った方がいい。しかし、それら総て終わった後や始まる前の話。音を聴いて心で感じる、それが音楽の価値であり、それによって何を聴きたくなっていくかは1人々々異なる。誰もがそれによって自分自身だけの物語を、人生を得られるのだから音楽に優劣をつけてそこで終わるのは愚の骨頂である。


それを踏まえてもなお、いや、だからこそ、送り手たち、音楽家たちは才能の差を日々痛感して過ごしている。毎度言っているように、日本のプロの作曲家でヒカルの作曲能力を評価しない人間は1人も居ない。居たら話を聴かせて欲しい。「モーツァルトに較べれば劣るから」とかなら、わかるんだけど。

そういう、人も羨む、いや、作曲能力が高ければ高いほど尊敬してしまう宇多田ヒカルという人の能力の高さを"正確に把握"するのは本当に難しい。日本人じゃあ誰もかなわない、かといって人類史上最も偉大かといわれればそれも違う。多作という程でもなければ寡作まではいかず。質と量がどこらへんに位置するか。出来るだけ理解しておかないと、度を過ぎた期待をかけて勝手に落胆したり、侮り過ぎて様々な機会を逸したりと禄なことがない。

正確に把握していれば、例えばヒカルが手を抜いた時に叱咤激励する事も出来るし余りにも頑張り過ぎている時はブレーキをかける事も出来よう。前者に関しては今迄に一度も無かったしこれからも無いだろうけれど、後者については我々の全員が反省すべき点である。本人も含め、Utada Hikaruという人はしばしば自らの能力を過信し倒れるまで働いてしまう事がある。例えば量が同じでも質を程々にするとか、質を維持するなら量を減らすとか、なんらかの工夫が必要なのだ。

しかし、もっと微妙な問題もある。もし私がUTADA UNITED 2006のツアーに帯同していたら、8月中旬のどこかで公演を幾つかキャンセルするべきだと進言したかもしれない。或いは、もっと負担の軽いセットリストにしようと提言していたかもしれない。これ以上やったらヒカルが取り返しがつかない程に壊れてしまうかもしれない―そんな不安に駆られたら物凄い剣幕で怒鳴り散らしていたかもしれない。

幸い、私は全く関係者ではなく、怒鳴り散らす機会もなかったのでよかった。ヒカルは見事最終公演まで皆勤し、最終的には物凄いクォリティーのパフォーマンスを見せてくれた。In The Flesh 2010やWILD LIFEを観る限り喉に後遺症も遺らなかった。ヒカルは賭けに勝ったのだ。尾崎豊と同じ注射を打ちながら2ヶ月間を止まる事無く走り抜けた。

何が言いたいかというと、人は、事前には無理でも、無茶をやっているうちに成長してしまう事がある、という話だ。相手の能力を見極めるとは即ち、現在の力量に加えて、これから成長するかもしれない部分まで視野に入れておかないと、ますます判断は誤られるという事だ。ファンに出来る事なんか何もなさそうに思えるが、例えば100人から「無理すんな」というメールが届いたらヒカルだって「そうかな」と思ってしまうかもしれないぞ。わからをもんだ。

なので、Hikaruの現在の能力を見極めるのすら難しいのにこれからの更なる成長の可能性まで考慮に入れなくてはならないとしたら、うん、諦めた。倒れるのを未然に防ぐのは無理だ。もう本人の経験と勘を信じるしかない。ホント、何とかならんもんかねぇ…。