無意識日記々

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うん、今ココ。残り香に触れながら。

最初の頃『残り香』を聴いていた時、他の(『初恋』の)曲にはない“居心地のよさ”みたいなのを感じていた。言うなればヒカルの部屋でまったりと二人きりで過ごしているかのような。いや実際に二人きりだったら全く落ち着いてられないでしょうが(笑)、まぁそうぢゃなくて、例えば『Animato』や『日曜の朝』や『HEART STATION』みたいな感じといえばいいのかな、メロディがどうのアレンジがどうのと言う前にまずただただその音を流していて心地よい、居心地がよいと思わせるような、そんな少しばかりあやふやな感覚。それが『残り香』には感じられたのだ。

その理由はすぐ後にヒカルの口から直接語られる。曰く、『残り香』は、アルバム『初恋』で唯一自らの手だけで完成させた楽曲なのだと。嗚呼、それでか。混じり気のない、ヒカルから出てきた音だけで構成されているが故の感覚だったのかと。なるほどねと納得した。

毎度語っているが、自分が、各楽曲単位でなくアルバム全体の作風としていちばん気に入っているのが『EXODUS』で。同作はティンバランドに手伝って貰った数曲以外はたった4人で仕上げたアルバムなのだ。謂わばヒカルから(UtaDAから)出た音の割合がいちばん大きいアルバムなのである。ただ鳴らしているだけで、そのサウンドの手触りというか肌触りを感じているだけでずっと心地よい。その感覚がいちばん強いのです。

これは自分の感覚を後付けで説明しようとした結果でしかない。『残り香』もそう。その為、その事(“自分がヒカルからだけで出来てる音をより心地よく感じること”)に気がついた時自分は甚く困惑した。何故ならば、この日記を書き始める以前からずっと自分は「(音楽的に)他者と交わるヒカルを見てみたい・聴いてみたい」と言い続けてきていたからだ。

普段はメタルだプログレだと何人かのチームで作編曲に取り組む人たちの音楽に親しんでいるので、複数の才能が化学反応を起こした時に倍加する魅力を日々痛感している人なのだ私は。ヒカルのように図抜けた才能が誰か他の図抜けた才能と交わればとんでもないモノが出来るんじゃないかと夢想していた。勿論、ロックバンドとシンガーソングライターでは初手から音楽へのアプローチの仕方が異なるのだから何を無茶なと片方では思ってはいたが、それはそれとしてヒカルが次々と他者とコラボする期待を仕舞い込んでしまった事はなかった。

そして今。ヒカルは『桜流し』を皮切りに『Fantome』から『初恋』にかけてしこたま外部の血を楽曲の奥深くまで取り入れてきている。『桜流し』や『パクチーの唄』は共作だし『忘却』のように共演を超えてすわヒカルが脇役かと思わせるようなものまで出てきた。本来なら私は諸手を挙げて今の事態を万歳三唱するべきだし実際絶賛し続けてきたとも思うのだが、ここに到っても尚『残り香』に触れる心地よさを通して2004年の頃から変わらず自分の中に通底し続けている「結局ヒカルの作る音が好き」という感覚の部分に気がついてやれやれと溜息を吐いているのであった。うん、今ココ。

これは、自分の感覚に折れるべきなのだろうか? 私は、“本音”とやらを剥き出しにして「宇多田ヒカルは外部の血を入れるべきではない。100%自分の音で勝負すべきだ」とか何とか主張する宇多田ヒカル原理主義者へと鞍替えすべきなのだろうか? どうにもこの判断が難しい。

ひとりで悩んでろよ、そんなの読者に関係ないじゃん、と言われそうだが、どこかでちゃんと触れておかないといきなり原理主義者的主張を口角泡を飛ばして繰り返すようになったら長年の読者ほど面食らうだろうなと思ったので。取り敢えず今、そういう(結構どうでもいい(笑))事で悩んでいる、という事は経過報告として記しておきたかったのだ。ややお目汚しになってしまったかもしれないが、そこらへんの所を御容赦うただければこれとても幸いなのですよっと。