無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

「その話要る?」な話の続き。

同性愛者嫌悪層の心理として前回は自己嫌悪不安を理由のひとつに挙げてみたがもうひとつ、考えられる側面がある。それは恋愛クラスタクラスタリングだ。

そもそも、どんな文化においても性と恋愛に対して消極的、或いは積極的でない層、更には興味はあっても抵抗がある層、が存在していて、それらはしばしば負け犬ムード扱いをされるか、最初っからその話題の中に居なかった事にされる。特に、恋愛結婚が主流となった社会ではそのコントラストが強い。昨今の日本がそれにあたる。

こういう場合、非恋愛クラスタの方が、負け犬扱いされるだけあって劣勢である。生物学上もそれで仕方がない、なんていう言い方が説得力をもってしまう程度には。従って、非恋愛クラスタ側は、その数はともかく劣勢マイノリティとしてのメンタリティが蓄積する。例えば嫉妬や鬱憤といった感情だ。しかし、社会的にも生物的にも、恋愛クラスタの方が望ましいとされる状況にあってはなかなかそのルサンチマンを解放する機会がない。

このような時に、同性愛者は標的になり易いのではないか。つまり、恋愛や性に積極的であり、尚且つ社会的・生物学的には望ましいとされていない(繁殖に貢献しない、という随分わかりやすい理由で)クラスタが同性愛者層なのだ。ここは攻撃し易い。一言で言えば鬱憤晴らしなのだが、社会と文化の生み出した鬱憤なのでその浄化作用の理屈づけもシステム化されやすい。これが伝統的な同性愛者攻撃心理の原型のひとつとなるのではないか。

即ち、標的となる一次的な理由は、性愛の対象が同性か異性かの違いである前に、そもそも同性愛をカミングアウトする層が"性と恋愛に積極的"なレイヤーだという点なのだ。同性愛者ときくとどうしても"同"の字にまず注目が行くが、その前に"性愛者"である事、性と恋愛を謳歌しているクラスタだという点が"癪に障る"という所から始めないと、論点を見誤る可能性がある。

で、その中で考えると…と話は続くのだがなかなかくまちゃんが出てくるところまでいかないなぁ。以下次回、となるかどうかも、わからない。