『Time』の歌詞は百合男子大歓喜の同性愛を想像させるものだったが、今後更にLGBTQな皆さん&思想が市民権を得ていったら果たしてラブソングの歌詞はどうなっていくのだろう。
“完全に”市民権を得てしまうと逆にバリエーションが無くなると思われる。性別という概念が全く無くなる事になり、それは人と人の営みの話でしかなくなるからだ。あなたがどんな対象を愛そうが知ったことでは無い。ただ、それは言い換えれば一曲々々が総てひとつのバリエーションとも言えるようになる訳で、信じられない位複雑怪奇なものだらけになっているかもしれない。
そもそも男女という概念自体、人間社会で性愛行動を促進する為に簡略化さ管理を狙ったものだ。性別とは生物学的特徴ではないのかと言われそうだが、あなたは教わらずに見ずに聞かずに性行動が生殖行動だと理解したこどもを見たことがありますか? 殆ど居ないと思われる。それらは後天的に文化活動の中で結び付けられていくのだ。男女の区別もそのいちジャンルに過ぎない。人間が本能で子孫を残せると思ったら大間違いですよ。性差性別・男女の区別とは文化が発展すれば如何様にも変化する非普遍的な概念のひとつなのである。
とはいえ、そんな「完全な」世界もまた非現実的ではある。我々の情報処理能力は有限であり、カテゴライズなくして認識活動は覚束無い。LGBTQが更にアルファベットを増やしていく様を見ていく事になる。音楽のサブジャンルが増えるようなものでな。「今度のアルバムはスカンジナビアン・シンフォニック・メロディアス・ブラック・メタルにサイバーパンクを融合させたスタイルに挑戦していてね」みたいな事を書いて「ディセクションの1stとミニストリーの3rdを併せたみたいな感じ?」なんて会話が成立することを思えば案外適応できるかもしれない。
よくわからないことを書いているけれども、しかし、そもそもヒカルは歌詞作詞において昔から、いや最初期から「性別を入れ替える」手法を自然に取り入れてきた。入れ替えるというのはそこに「対称性」があることの顕れである。左右対称とは左右を入れ替えても不変な性質を言う。ヒカルはラブソングの歌詞の中で男女を入れ替える事で愛について性差性別によらない普遍的な性質を抉り出す事を得意としてきた。それはこれからも変わらないどころか、恐らく、更に巧みになっていってますます気づかれにくい自然さで組み込まれていくようになるだろう。私らすっかり心地よく騙されていく事になる。あたしももしかしたら既に『Time』で騙されているのかもしれない。てっきり百合厨大歓喜な同性愛ストーリーだと思っていたけど実はモデルは異性愛だったとか親子愛や兄弟愛だったとかあるかもね。ペットとの絆だったりね。その上、恋愛でないテーマを恋愛に比喩して描くのも得意だよねぇ。『EXODUS』なんかラブソングに見せ掛けた国際関係を主題とした歌が並んでいたしな。閑話休題。
なので、今後LGBTQの皆さん&思想が自然に受け容れられるようになっていけばいくほど、宇多田ヒカルの歌詞の自在性は増していく筈だ。今迄だと受け容れられないだろうと却下していたやや急進的なテーマの歌詞とかも書きやすくなっていくかもしれない。性愛とは関係ないけれど例えば『お姉さんのリストカット』みたいな歌詞を思いついても取り下げたりと、時と場合をみて歌詞を取捨選択する人だからね。
そんななので、皆さん、是非、これからも、頑張って欲しいなと、他人事の無責任さを伴って、書いておきたくなりました。いやほんと、もっと住みやすい社会になりますように、心底祈っております。