無意識日記々

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明日の夜には

春らしい陽気が続き、明日の夜には「Kuma Power Hour with Utada Hikaru」が聴けるというのに、当方はそんなにテンションが上がっている訳ではない。多分、番組の内容に対してあまり不安がないからだろうかな。ヒカルが出てきて何か話してくれればそれが正解なのだから、後はそういう番組だとわかればOKだ。ヒカルが出て来て喋る。当たり前過ぎる事程当たり前の事の筈だが、アーティスト写真を頑なに使わない今の姿勢からすると、歌声以外の声を封印するという手段も論理的には有り得るので、その可能性が頭をよぎるっちゃあよぎる。でも宅録でヒカルが喋ってないという事はないのだから、声にエフェクトをかけるとか曲だけをかけるとかアクロバティックな方法しか残っていないので杞憂に終わるだろう。

となると、多分この不安という感情は捏造である。番組への期待感に胸を一杯に膨らませる事への心理的抵抗なのだ。その原因となるとあやふやになっていくのだが、ごっそり底が抜け落ちるような不安を自分の中に作ろうという感情は倒錯的で、何だろう、文学的でもあるかもしれない。もっといえば、ラジオに出て来て喋るというのは、そういうムードを置いてき堀にするようにも感じられるからだろうか。

何もないときの日常の「宇多田ヒカル」は、静かなものだ。お陰で「祭り」になった時のテンションとの落差が激しい。それは、日常に「宇多田ヒカル」が住み着いていればいるほど、大きくなる。出て来て喋る事によって逆に疎遠に感じるとは皮肉なものだが、そうやって何かを埋める必要がない、というのは喜ばしいだけに物足りなく、寂しくもある。明日には#kuma761のハッシュタグは埋め尽くされるだろう。そういえば、#sakuranagashiのタグも数ヶ月経てば(それが望ましい事なのだが)周りには少ししか居なくなっていた。妙な感情だが、不必要な事をしているんだろうかなと一瞬でも悩めば、その染み痕はするすると居残り続ける。そこから広がりもしないし、時と共にまたすぐ薄れていくのだが、"痕の痕"のようなものはずっと残り続ける。時々気分は、新調されなければいけない。

それが、明日の夜なのだろう。ならば、僕らは誰よりも喜ばなければいけない。誰に強いられているでもなく、好きでそうしているのだから。見失っているのではない。目が慣れているだけだ。瞳孔は、瞳はまたすぐ開いて光を目一杯浴びれるだろう。光のない、という比喩においての"闇と影の担い手"としては、そういう気分もまた幸福の一形態なんだろうなとしみじみ思う。明日の1時間が終わればまた次の1ヶ月が始まる。妙な感情だが、その事を思い出すとまた少し元気になる。だから止めない、止まらないのかもしれない。人の心とは、予め知るには余りにもワガママなものなのだ。居ない寂しさを埋めなくていい寂しさだなんて、最初に言われたってピンと来ないもんね。