無意識日記々

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EVAQ3.33を前にして

今日は火曜日なのになぁ、という妙な溜め息を吐くのが毎週の習慣になりつつある今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。やれやれ。

本来なら週末に観たEVAQ円盤やサントラの感想を書く予定だった気がするが、どうにも手がつかない。最終興行収入52億、今日にも円盤の初動が判明するビッグコンテンツなんだが、やっぱりEVAQはどこまでも"途中"であって、それ単体で評価できるようなものではない。桜流しとて同じであって、ヒカルが過去にとっつきやすい楽曲を幾つも書いてきているから桜流しがこうであっても手放しに絶賛できるのだ。いや、なくたって絶賛してた気もするけれどね。

EVAQは「わざとこうした」感が強い。序破をああいう娯楽性の強いものに仕上げられたのだからQをそう"できなかった"とは考え難い。総監督が何らかのスランプに陥った風でもないし、そうそう心変わりしたようにも捉えられない。しかし、Qは単体でみた時娯楽性が低いのもまた事実である。これだけ観た人は"何をやっているかわからない"のだから。

バージョン表記が3.00から3.33に移行したこの円盤版、まだしっかり観た訳ではないので即断は出来ないがそこまで劇的な変化はないようだ。EVAの特徴はその"LIVE感"にある。制作を続けながら作品がどんどん変化していく。上映中の作品のカットを途中で差し替えるとか大胆にも程がある。

実は、この点が宇多田ヒカルとは相容れない。彼女は根っからの完璧主義者で、常に完成品だけをリリースして過去を振り返らない。勿論、FINAL DISTANCEのような例もあるが、だからといってDISTANCEが未完成或いは不完全かといえば否だ。もしFINAL DISTANCEがこの世に生まれなかったとしても何の違和感もなかっただろうし、こうやって実際にFINAL DISTANCEの存在する世界線に立っても、DISTANCEが劣っているという風にはみえない。それはまるで、時を隔てて生まれた男女の双子のようであり、どちらがどうという事ではないのである。そう、FINAL DISTANCEのミュージック・ビデオに描写されていたように。

そこが、何か"巻き込む力"の差になっているようにも思われる。FINAL DISTANCE以降、"自分自身をさらけ出す"事を重要なテーマとして突き進んでいた宇多田ヒカルだが、今振り返ってみると…という話からまた次回。