無意識日記々

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LIVE感と完成度と喜怒哀楽と慈悲

EVAQ円盤の初動数字が出たようだ。破と較べるとBDは横ばい、DVDは半減、といった所なのかな。詳しい数字はわからないが、BDを買うようなマニアは懲りずに付き合い、DVDを買うライト層はごっそりと離れた、という構図かな。まぁそこらへんの分析はここでやる必要も能力もないからいいか。

前回からの続き。要は、EVAというコンテンツは、前世紀からグダグダで来ている、という話なのだ"LIVE感"というのは。制作現場の混乱と苦悩が透けて見えるような破天荒な作品をリリースし続けてきていて、そこらへんのグダグダっぷりが新劇版では影を潜め、安心して楽しめる一流のエンターテインメント作品へと変貌を遂げていた…筈が、その前世紀のグダグダ感を想起させるQを発表した事で旧劇版からのファンが溜飲を下げる、という展開だった。

このQのグダグダ感は、"作られた"ものである。作画が崩壊した訳でもなければ、封切りに間に合わなかった訳でもない。映画としての体裁は万全にした上で、その枠の中で前世紀にはあったテーマ―衒学的で幻惑的、且つ混沌と疑問に溢れた作風を"再現"してみせた。ここらへんが肝であろう。ある意味、あの頃の「ホンモノの"LIVE感"」はもう戻って来ないのだ。

宇多田ヒカルの作風というのは、兎に角逃げない。真っ向からテーマと向き合って取り組んで完成品を作り出す。お蔭で、ヒカルは弱さを人と共有する為により強くなってきた、という経緯を辿る。弱さを作品に昇華する為によりサウンドを強靭に、しなやかに洗練させてきた。ある意味、そこまでして守るものがなくなったからサウンド作りに興味のない時期もやってきたのかもしれない。まぁそれはさておき。

つまりヒカルは、弱いものや不完全なものをそのままこちらに放り出してきた事がないのだ。どうしたってプロフェッショナルな、完成した音楽によってしか表現を許さないのである。だからこそEVAは新劇版からの登板になったとみる。旧劇はそりゃ実際には年齢的に無理だったろうが、そういう話ではなくて、新劇版が旧劇のまんまの制作体制だったらヒカルは仕事を受けていなかった、或いはどこかの段階で断っていたかもしれない、という事だ。

VAN HALENのデイヴ・リー・ロスは「スポンテニアスであるかのようにみせる技術」がステージでは大切なんだ、と語っていた(というかそういうステージングを心掛けていた)らしいが、"LIVE感"をエンターテインメント作品に封じ込めるには熟達の技が必要であると共に、当たり前だが"LIVE感溢れる物作り"自体の経験がないと無理だろう。ヒカルの場合その影がない。ただ、不思議な事に、そういった弱さや緩さやだらしなさや情けなさやずるさや怯みや怠惰や愚鈍や何やかんやを、ヒカルの曲は受け入れ許してくれる。ヒカルが音楽に最も求めるものである「慈悲」が、そこには在る。寧ろ、その総てを通過した結晶だから曲がそうなる、のかな。

EVAがQを経て最終的に慈悲にまで辿り着くのか、それとも、アニメーションという媒体は音楽とは異なる地平に居を構え大輪の花を咲かせるのか。まだまだ話はこれからだろうな。