無意識日記々

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凪を薙ぎ払え

私は長い曲が好きだ…と長年思って生きてきたが、どうやらそれだけではない事に気がついてきた。どうやら、かなり本気で「音楽に終わりなんて必要ある?」と思っているらしい。まぁたまには一息つけばいいと思うけどそこからまた続きを始めよう、と思っている節がある。

2009年に発表されたTRANSATLANTICの「The Whirl Wind〜旋風〜」という曲は78分(ライブバージョンだと80分以上)あるのだが、この曲が終わった理由は「CDだと78分までしか収録できないから」だった事は明白だった。それ程に創造性が満ち溢れ、次から次へと楽想が湧いてくる。そんな風景を知っているからこそ余計に「終わらなくていいのに」と思ってしまう。私にとって音楽とはそういうものだ。途中でたまに静寂が訪れてもいいが、すぐにまた次の音を鳴らしてみようよ、となる。まさにMusic Never Endingだ。


一応、光がアーティスト活動を休止している今という時期は私にとって「人生の無音部分」ともいえるものだ。あらゆる流れが途切れ、次の胎動が始まるのをじっと待っているような…と思ってたら桜流しが出てきて総てなぎはらっていってしまった。凪の時期だと思っていたのに。全く。

それはそれとして。光自信はどうなんだろう。音楽を仕事としてみていると、いつか"引退"しなければならない日が来るのだろうか。確かに、世の多くのひとたちは「定年退職して隠居生活」を予定している、或いは実際に遂行しているだろう。しかし、音楽ってそういうものなのだろうか? 鳴らし始めたら、鳴らし終わらなくったっていいような。ONE PIECEを終える前に尾田栄一郎に死なれたら激しく困る。それで引退していいから、兎に角ちゃんと終わらせて欲しい、と思うだろう。そういう作品はそういうものだ。では音楽はどうなのだろう。また次の音を鳴らす営みは、尾田がONE PIECEの次の作品を始めるのと同じなのだろうか、違うのだろうか。

…自分で書いておいて何なんだが、これは様々に微妙な論点を含む難しい問題である。音楽は感情と共にある以上、眠たくなったらそこで終わりである。それが本質だと思う。音楽の終わりとは、だから、即ち、作り手が設定するのではなくて聴き手が作り出してしまうものなのではないだろうか。私に今言えるのはこれ位だ。

話を戻そう。光が、音楽を仕事としてみていて、いつの日か引退するかもと考えているのか、それとも、日々の営みの中で息づいている音楽がたまたま売れてしまったから仕事になっているだけで、本来それとこれとは関係ない、と言うのだろうか。光が音楽の流れを自ら絶つような事を、するか?

これもまた難しい疑問である。あそこまでプロフェッショナルで居続けてくれたのだから老後はマイクを置いて静かに余生を堪能してくれれば、という風に考えてもいいだろうが、どうにも不自然な気がしてならない。音楽に終わりはない。音が途切れてもまた始めればいい―光がそんな風に感じていてくれればいいのだが。こちらは、音楽に終わりはなくていいと思っている。永遠に「つづき」を紡いでいこうではないか。心意気やよし、である。