無意識日記々

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『世界中の音を全部入れられるけど』

最近ヒカルさんの意識の抽象度が上がっていて、その発言のどこまでを正確に把握できているか正直心許ない。例えば、前回も取り上げた『建築も音楽も空間作り』の文脈で出てきたこちらなどはどうだろう。

『音楽も、例えば世界中の音を全部入れられるけど、ほとんどの音は入れない。』

https://spice.eplus.jp/articles/320799

このくだりを聴いて私は「なんちゅうスケールの大きい見方してるんやアンタ」と呆れたものだけれど、だからこそどこまでその真意を慮れているのやら。

文字起こしだと誤解を与えそうだ。『世界中の音を全部入れられる』というのは「総ての音をいっぺんに詰め込む」という意味ではない。私たちが音楽を作る際、「次の瞬間、世界中にあるどの音を鳴らしても鳴らさなくても構わない」という「膨大な選択肢が存在し、そのどれをも選び放題」な点について触れているのだ。エレクトリックギターでCのコードを鳴らした次の瞬間にクッキーのプチプチを3ついっぺんに潰した時の音を鳴らしてもいいし、そこから猫避け超音波の音(?)を3秒間鳴らし続けたっていい。ヒカルとダヌパの猫の鳴き真似だってフィーチャーしていいぞ。何を鳴らしてたって構わないのだ。勿論、それらをいちどきに鳴らしても大丈夫。

だが実際は、そんな膨大な「音の選択肢」の中から次の瞬間に鳴らされる音は極めて限定的である。エレクトリック・ギターでCのコードを鳴らした次の瞬間にエレクトリック・ギターでBmのコードが鳴らされる確率は、クッキーのプチプチが潰れる音が鳴らされる確率より遙かに高いだろう。そういう意味で、どんな音でも鳴らせるけれど結局の所『ほとんどの音は入れない』ことになるのだ。理屈としてはね。

そういう意味では、ヒカルの

『音楽も無音で始まり、無音で終わる』

という発言もまた示唆に富む。始まる方の無音は、これからあらゆる音が鳴らされる可能性に満ち満ちた「未来に開かれた無音」である。まさに『世界中の音を全部入れられる』可能性を秘めた無音なのだ。一方、終わる方の無音は、ここから一切の音が鳴らされる可能性がどこにもない「未来が閉じた無音」となっている。どこかの時点でまた音が鳴るとすればそれは、また別の音楽が始まったか、或いは「長い長いブレイクがあっただけ」であってその音楽はまだ終わってなかったかの何れかだ。先日触れた『Laughter in the Dark Tour 2018』での『初恋』なんかはまさにこの後者の好例だろう。あそこの数秒間の無音に於いて、音楽はまだ続いている。それどころか、その曲の中で最も雄弁なパートであったとすらいえる。我々に強烈な印象と記憶を与えたのだから。無音もやはり音楽の、楽曲の、歌の大事な一部なのだ。

斯様にヒカルの音楽は、非常にスケールが大きく、思い込みや偏りがとても少ない開かれた状態から始まることが見てとれる。もっと踏み込んで言えば、宇多田ヒカルの歌はまず「とてつもなく大きな何か」に触れる事をスタートにして生まれてくるのだとも言える。そしてその「何か」とは、具体的には『世界中の音を全部入れられる』状態の事を指す。何もかもを可能性として考慮に入れること。動き出し始めるまでは大変そうだが、ひとたび捉えたらたちどころに育ち始めそうな、そんなフィーリング。この「無音から始まる音楽」の感覚を共有できれば、ますますヒカルの歌を楽しく聴くことが出来るかなと思うよ。