無意識日記々

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圧倒的な何か

ヒカルが、Prisoner Of Loveの生ストリングスを録音した時、生身の人間の演奏に圧倒された、というエピソードの含意を考えるのは常に興味深い。

思うに、彼女たちが図抜けて素晴らしい演奏家だった、という事ではないと思う。いや勿論、宇多田ヒカルからオファーが来てそれを受ける位だからその道の一流である事は間違いなく、職種を考えれば常人では思い及ばない程の質の高い競争を生き残ってきた人たちなのだからその意味では素晴らしい演奏家に間違いないのだろうが、ここではそういう意味ではなく、例えば、LED ZEPPELINの曲を彼らより技巧的に精確に演奏できるミュージシャンが居ようともLED ZEPPELINの4人が創るような特別なモーメントを生む事が出来る訳ではない、というような意味だ。彼女たちは譜面を渡されそれを即座に理解しコンピューターより遥かに情感豊かに楽曲を演奏しただろうが、その譜面を生み出した宇多田ヒカルという人が聴いていたのは、何と言うのだろう、もっと大きな何かであったのではないか。

人間が演奏する、という話を耳にすると、機械の演奏に対して、わざとずらせるとか、スウィングやグルーヴがある、エモーションがある、音楽に呼吸が生まれる云々を持ち出して、その独自性というか"代替不可能性"について熱弁がふるわれる。そして、だから機械の演奏は物足りない、人間が演奏した方がよい、という結論になる。

私は、結論については全面的に同意するし、それを導くに至った理由付けのひとつひとつについても反駁する気はない。どれも一理あるだろう。しかし、いちばん肝心な理由がひとつ、いつも抜け落ちている気がする。それは、「演奏している音楽家が必ずその演奏を聴いている」という当たり前過ぎる事実である。

演奏家は、必ず同時に聴衆の1人である。場合によっては、自分の演奏しか聴けていないような場合もあるが、しかし、全く何も聴いていないというような事は有り得ない。(聾唖の演奏家さんなら別かもしれないが、その話に立ち入るのは難しいのでここでは遠慮しておく)

機械は、自分の演奏を聴いていない。何しろ、彼らは必ず"自ら意図した通りに"(皮肉っぽい比喩である)演奏出来るのだから。耳をそばだてる必要もないし、そんな能力もない。しかし、生身の演奏家はそこに居て、演奏を聴いている。たまに意図通りに弾けていない、つまりミスをする事もあるかもしれないが、それを聴いて次からは修正が出来る。今ちょっとテンポが早かった、次はもうちょっとゆったりと行こう、という感じに。

いや、演奏を聴く事によって修正ができるというのは、片側の側面でしかない。やはり、そこに「音楽を聴く主体」が存在する事が重要であって、それが演奏の当事者である場合、音楽を通してその存在を証明できる、という点が重要なのだろう。そこに高い技術が伴った時、まさにそこに音楽が"生まれる"のだ。

人は、蓄音機の"再生"ボタンを押した時に、音楽が生まれるのは蓄音機からスピーカーにかけてだと思いがちだが、そうではない。「聴く人」(主体/Subject)が居てその人の心に音が届いてそこで初めて音楽が"再生"するのである。人が音楽を演奏する時、その人が音楽を聴いて何かを感じている時、その空間は音楽になる。ヒカルが見たのはその景色だったのではないか。確かに、ただ聴衆に届けるより遥かに圧倒的だっただろう。世界の一部が音楽になる瞬間。素晴らしい楽曲と、それを理解し表現できる人間たちがひとつところに重なって初めて生まれる時間。また、そんな経験がHikaruに訪れる事を願っている。その10000分の1でも味わわせてくれたなら、ただの聴き手としては非常に満足である。