ふおぉ、遂に宇多田ヒカル初のライブアルバム『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios』、通称『LSAS2022』がリリースになった。誠に、誠に感慨深い。リリースに尽力してくだすった皆様に深く深く御礼を申し上げたい。どうもありがとう。
まぁ“ライブアルバム”といっても、スタジオでの生演奏を収録したものなので例えば諸々の名盤たる「LIVE AT BUDOKAN」みたいな華やかさは、ない。MCも歓声もなく淡々と進んでいく内容だ。しかし、過去には例えばザ・ビートルズやレッドツェッペリンなんかたちによる「BBC Sessions」のように、スタジオ生演奏を主軸にした作品が“ライブアルバムの名盤”として持て囃されてきているのだから、名門Air Stuidiosでのスタジオライブもまた“ライブアルバムの名盤”と呼ばれるのに何の支障も無い。
ヒカルが『Animato』で
『BBC Sessions of LED ZEPPELIN~♪』
と歌ったように、半世紀後とかに誰かが
『Live Sessions of Utada Hikaru~♪』
と歌ったとしても何ら不思議ではない。うまく乗るメロディー全然思い付かない歌詞だけど。
とはいえ、「映像作品が今年の1月と2月にもう出回ってるじゃん。それと音は同じなんでしょ? 寧ろ絵がない分、物足りなくない? そんなにはしゃぐこと?」という声が聞こえてきても、それもまた不思議ではないよな。蓄音機やレコードしかない、映像作品として売るにはコストが見合わなかった大昔とかならともかく、安価なDVD/Blu-rayや映像配信で幾らでも映像込みのライブセッションを楽しめる時代に、ライブの音だけのモノを持て囃す理由ってある? うむ、至って真っ当な疑問だろう。
寧ろ逆なのだ。音だけを切り取っているから、逆に作品性、作品としての価値が高まるのである。
例えば、写真。目の前に全く同じ風景が拡がっていても、素人と写真撮影の専門家ではそこで生み出せる作品(写真)のクォリティーはまるで違う。どの時間、どの場所でどんな光の許、どこからどこまでを切り取って四角い枠の中に収めるのかで、結果残る作品は全然別のものになるのだ。要は「切り取り方」こそが作品性だ。
ライブ音源も同じである。「スタジオ生演奏」という“現実”を目の前にして、それをどう切り取って作品として残すか、となった時に映像と音源を同時に編集したものと、音源のみを取り出したものでは作品としての性質がまるで違うものになるのだ。いわば「スタジオ生演奏」は作品のための素材でしかない、とまで言えるのである。
ヒカルがフィクションも現実も同じく等しく歌詞の素材として扱うように──とまで言うと言い過ぎだけど、今回のLSAS2022の制作とリリースも、昨年2021年11月にAir Studiosで起こった「スタジオ生演奏」という“出来事”を素材に作り上げたひとつの新たな宇多田ヒカル名義の作品なのだ。もっと踏み込んでいえば、『One Last Kiss EP』と『BADモード』に引き続く、音楽家宇多田ヒカルによる「ニューアルバム」なのだと言って差し支えない。そのつもりで楽しむのがベターだろう。
いやまーね、@hikki_staffとしては、素材とはいえ同じ音の有料配信とCDバンドルを発売してる手前、大々的に「宇多田ヒカルの新譜が出ました!」とは宣伝できないだろうて。しかし我々リスナーはそんなことはお構いなしに、この緊急発売ともいえる新譜を、白昼堂々(勿論夜間も)楽しむ事に致しましょうぞ。サブスク入ってない人もダウンロード販売あるから検討してみてね。勿論、ハイレゾでも売ってるよ!