無意識日記々

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神々しい歌声

エリザベス・フレイザーの「神々しさ」についてHikaruは、歌声で様々な風景を見せてくれる点について言及していた。彼女の声に反応しない向きにとってはピンと来ない事この上ない。

歌声が直接、草木の緑や岩に打ち寄せる波を表現している訳では、ない。見方が逆である。元々草木の緑や地平線や海原を知らない人にエリザベスの声を聴かせてもそんな風景は浮かんで来ないのだ。そうではなくて、その自然の風景を観た時の人の感情の方を彼女の歌声は表現しているのである。その感情の生起から"連想"して、人は草木の緑や地平線を思い出す。その時に感じたフィーリングをトリガーとして。

裏を返せば、Hikaruは、そういった自然の風景を目にした時に、まるでエリザベスの声が鳴り響いているかのように感じているのだ。そして、その、自然の風景を観た時に感じる畏怖と畏敬の念。これを指して"神々しい"とHikaruは口にするのである。ここらへんの構造が頭に入っていないと、"世界でいちばん好きな歌手"とまで言わせる凄味がなかなかピンと来ない。

これは、最初からエリザベスの歌声に神々しさを感じている人にとっては蛇足も甚だしい説明である。が、具体的に想起する情景自体は、彼女の歌声に感銘を受けた者同士でも重なる事は少ない。想起と連想は、個々の過去の体験と経験に強く結びついているので、例えば観た事のある地平線や水平線がまるで違うものであれば、同じ音楽を聴いたとしても同じものになるとは限らないからである。

しかし、重ならない事もない。そういう人はHikaruと話が合う。同じものを観た時に同じものを感じられる。それは正直羨ましい。ただ、異なる連想と想起の機構を持っていたとしても、同じ曲が好きなら同じ感情を持っていると言ってもいい。それが音楽の力である。それを知らしめてくれるからこそ、エリザベス・フレイザーはHikaruにとって特別な存在なのだ。